「もう地獄ですよ」「来年、もう1回」… 広島ドラ3大道が恩師から得た“卒業証書”

広島ドラフト3位で八戸学院大の大道温貴【写真:高橋昌江】

侍ジャパン大学代表候補選手強化合宿で味わった屈辱

今年のドラフト会議で広島から3位指名された八戸学院大・大道温貴投手は、正村公弘監督への感謝をこんな言葉で表現した。「僕という投手を作ってくれた」。春日部共栄高から進学し、投手育成に定評がある正村監督のもとで成長。夢の扉を開いた。文字にすると、わずか2文字の「成長」。その過程はいかなるものだったのか。4年後のプロ入りを目指して進学した大学生と、これまで好投手を輩出してきた監督の4年間の物語――。最終回は大学野球の卒業証書。

「その空間が嫌でした」

2年前の12月。大道は侍ジャパン大学代表候補選手強化合宿に参加。2日目の紅白戦で各投手は2イニングを投げることになっていた。1イニング目は東洋大・佐藤都志也(現ロッテ)から三振を奪うなどしたが、2イニング目で筑波大・篠原涼(現ENEOS)や早大・檜村篤史(現Honda)に力不足を痛感させられた。3アウトまで取れず、ノックアウト。「恥ずかしかったです」。早大・早川隆久(楽天1位)と交代。「どうやって抑えるのか、わからなかったです」と口ごもる。悔しいなんてもんじゃなかった。

「もう、地獄ですよ」

昨日倒れたのなら、今日立ち上がればいい――。そんな言葉を残したのは“SFの父”と称されるイギリスの小説家、HG・ウェルズ。落ち込んだ後は、負けん気に火が着いた。

「来年、もう1回」

1年後。不調から投球フォームを見直した春、体を作った夏、階段を登った秋を経て、再び、強化合宿に招集された。これが自信になった。だから、「絶対にプロになるって思ったのは3年の秋が終わってから」と言う。さらに、今年3月の選考合宿(新型コロナウイルスの影響で中止)のメンバーに選出されたことで、豁然開朗。心を決めた。

プロは小さい頃からの夢。高校時代、進路相談で「プロ野球に進みたい」と言い、春日部共栄高・本多利治監督から勧められたのが八戸学院大だった。八戸学院大・正村監督は吉田輝星(日本ハム)を金足農高時代に指導したことで2年前の夏に脚光を浴びたが、2003年のコーチ就任以来、三木均(元巨人)、青山浩二(元楽天)、塩見貴洋(楽天)らをプロに送り出しており、投手育成に定評のある指導者だ。

「僕という投手を作ってくれたのは正村監督」

「プロに行きたいと伝えたからこそ、本多監督は決めてくれたと思います」と大道。正村監督は声をかけたわけではなかったため、「思いっきり投げているだけだな。細いしなぁ」という印象だったという。人間は会うべき人と適切なタイミングで出会うようになっている。行きたかったわけでも、誘ったわけでもなく、“師弟”は本多監督によって引き合わされた。

入寮早々から教示を求め、公式戦は1年春から登板。最初のやる気は経験する浮き沈みや現実、実力をはかることで揺れ動く。プロへの思いはいつしか霞んでいったが、順風満帆な人生なんてない。3年生のシーズンを経て固めた決意は、広島からの3位指名という形で結実した。

「僕という投手を作ってくれたのは正村監督」

ドラフト当日、大道はそんな言葉で感謝を表した。だが、こんなことを言われると、指導者はくすぐったいかもしれない。「本人の頑張りですよ。大道が頑張らないと、こっちが言ったことだって、できないんだから。そこが土台ですよ」と正村監督。指導者は選手のそばで辛抱強く、道を示す。選手とは育っていくものなのかもしれない。

「頭を振るな」「軸をぶらすな」――。何度言ったか、言われたか。

「一生懸命投げようとするから、余計に頭を振ってしまうけど、それだと腕が振れないよ、と。それが、体が強くなってきて、『あれ? そんなに力を入れなくてもボールがいくじゃん』って気がついてから技術的にも伸びて、抑えられるようになったんじゃないかな」(正村監督)

体が追いついたのか。

「いや、体が追い抜いたかもしれない。『思い切り投げなくてもボールがいく』と教えてくれる体を、大道が作ったんですよ」と称える。2年秋からはリーグ戦中もウエートレーニングをするようになっていた。加えて、3年夏の変化がある。「軽く、ピュッと投げる感じを続けられるようになったのは、この間、4年秋の富士大戦くらいからですよ。フォームをゆったりさせて、リリースでピュッと合わせる。今は相当、楽に投げられています」と大道。

「まぁ、あいつは、何かと初めてずくしでしたよ」

4年の歳月。もちろん、指摘はこれだけじゃない。助言は数知れず。言われたことができず、自分に苛立ったのはしょっちゅうだ。だが、それも「監督の理想に近づけば上(プロ)に行ける」との思いがあったから。薄れるプロへの憧れが消えなかったのは、常に正村監督の“理想”を求めたからだろう。

八戸の冬は寒いというよりも痛い。入寮した日、大道はキンと冷える玄関の鏡の前でシャドーピッチングをはじめた。「正村監督と『見てほしいのかな』と話していた覚えがあります。練習したいのなら、室内練習場もあるので」とは当時のマネージャー。その2、3日後、監督室の扉はノックされた。

次の取材先に向かっていると、スマートフォンに着信が入った。正村監督からだった。大道が昨年、今年と1月1日に「あけましておめでとうございます」と電話をかけてきたという話を教えてくれた。元日に選手から電話が来ることも、連日のようにつきっきりでシャドーピッチングを見たことも前例がない。それも、入寮したての新入生である。

「まぁ、あいつは、何かと初めてずくしでしたよ」

自灯明、法灯明。これから踏み入れるのは自ら明かりを灯していく世界。そこで壁があったとしても、これまで積み上げてきたものが支えになる時がくる。

「最後の東北福祉大戦なんて、見事なもんだよ。ムカつくんだけど、楽しそうだったもん」

そう言って、肩を揺らした正村監督。その言葉は、「僕という投手を作ってくれた」という指導者冥利に尽きるセリフを残した教え子へ送る“卒業証書”のようだった。(高橋昌江 / Masae Takahashi)

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