【藤田太陽連載コラム】巨人だ、巨人だと言われると「それじゃあ」という感覚に

ドラフト1位で阪神を逆指名(川崎製鉄千葉時代)

【藤田太陽「ライジング・サン」(2)】実は僕は少年野球の時代から注目されるような有望株ではありませんでした。投手としてのデビューも高校3年からなんです。そこから社会人に進んで、3年でプロの投手になってしまっているんです。

当然、野球選手としては未熟でした。社会人野球にもスカウトしていただいて、ポンポンと行ってしまった。名門高校で先輩にもまれて、試合でも重圧の中でもまれてというよりは、素直に持っている能力だけでそこまで行ってしまった状態だったんです。

正直言って、野球も細かく知りませんでした。配球うんぬんを言われても理解できない、そんな野球人でした。その半面で「そんなの150キロのストレートをズドンと投げ込んでいればいいんだよ」と考えている自分もいました。でも、プロの打者にはその150キロを簡単に痛打されるんです。

それで余計な力が入って体に異常が出るという悪循環にハマってしまいました。アマチュア時代から痛めていた右ヒジの痛みには、プロに入っても悩まされることになります。この件に関しては改めてお話ししますが、プロ入りに際して長い目で見てもらいたいという気持ちだったのは右ヒジの不安もあってのことでした。

そんな中でも時間は待ってくれません。僕の周囲では、僕が99%ジャイアンツに入るだろうという人がほとんどでした。よく世間でも言われる話ですが、巨人なら野球を辞めてからも仕事があって安泰だとか、いろんなことを言われました。

でも、僕という人間が、周りの言うことを素直に聞き入れる性分ではありませんでした。巨人だ、巨人だと言われるたびに「それじゃあ、阪神に入って巨人を抑える方がいいんじゃないの?」という感覚が芽生えていました。熱心に、誘ってくれた佐野さんが、そこまで評価してくれているなら阪神に決めようか。と、そういう気持ちになっていました。

それ以前の段階ではパ・リーグの複数の球団からも1位指名のお話をいただいていました。確約というわけではないですが打診をされていた形です。でも、指名はお断りしました。それは両親が秋田で僕の姿を見られるのは巨人戦しかないからという発想です。当時は交流戦もなかったですからね。親に見てもらえない野球というのは自分の中ではなかったですね。

最終的にはセ・パ5球団ほどから1位指名でというお話をいただきました。でも、実感は本当になかったですね。「なんで?」「本当になんで?」「こんな僕でいいんだろうか」と、本当に思っていました。だから、本当に1位指名されるのかも半信半疑でしたね。

ドラフト有力選手というものは、大学生なら大学選手権優勝してとか、社会人なら都市対抗優勝とか何らかのトロフィーを引っ提げてプロ入りするケースが多いですよね。僕は甲子園にも出られてないですし、何もアマチュアタイトルがなかったですから。

強いて言えば日本代表に選んでいただいてメダルを取れたというタイトルはありますが、自分が大黒柱のエースだったなんてこともありませんでした。だから、経験豊富で代わりがいつもいるような巨人に入るのが怖いという感覚もありました。

野球選手はアマ時代から大注目されて、鳴り物入りでプロ入りするというイメージがあると思いますが、全員がそうじゃないですからね。プロで長くプレーできるのか、体格などを含めた素材や将来性もしっかり見られています。現時点ではまだ原石でもという話です。

次回は本当にプロ注目でもなかった僕がどんな環境で野球と触れ合ってきたか、そんな話をさせてもらいます。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

© 株式会社東京スポーツ新聞社