【藤田太陽連載コラム】体格に恵まれなくても巨人のレギュラー張っている川相さんが大好きに

憧れた選手は巨人の川相だった

【藤田太陽「ライジング・サン」(4)】父から小学4年時に言われた言葉「柔道ではメシは食えない」というひと言を聞いた数日後、僕はテレビ中継で巨人戦を観戦していました。すると当時、巨人で正遊撃手だった川相昌弘さんが、バスターからホームランを打つ場面を目撃したんです。

小技の利く2番打者だった川相さんが、バントの構えからホームランを打つ姿に僕は「川相になりてぇ」と思ったのを今でも覚えています。今現在、プロ野球OBで開催するイベントなどで一緒にプレーすることもあるんですが、川相さんが後ろに守ってくれているなんて夢のように感じますね。

のちに投手になる僕ですが、中学時代は本当に川相さんに憧れていました。僕もバントとか得意でしたもんね。中学に上がってからは3番、5番、6番くらいの打順を打たせてもらいましたが、よくセーフティーバントを試みたりしてました。中学時代もなかなか身長が伸びなかったので、体格に恵まれなくても技術で巨人のレギュラーを張っている川相さんが大好きでした。今は190センチ近い身長の僕ですが、当時は背が伸びなくて悩んでましたからね。

小学校から中学校に上がるとき、僕の住んでいた地域では2つの選択肢がありました。これまでなら進むのは秋田北中だったのですが、4年生のころに家の目の前に新設校の飯島中ができたんです。どちらに進学するかは、自分の意思で選ぶことができました。

同じ学区には現在もヤクルトで現役の173勝左腕・石川雅規がいました。石川は秋田北中に進みました。秋田北中は地域ではやんちゃなイメージで、それでもスポーツが強い学校でした。飯島中はできたばかりなのですが、小学時代の僕の1学年上の先輩が野球部にいて、有望選手でした。その先輩を追う形で僕は飯島中を選びました。

ちなみに石川が進んだ秋田北中学には、1学年先輩に鎌田祐哉さん(のちに早大からヤクルト)がいました。そんなに狭いエリアに将来、プロになる選手が集中していたってすごいと思いませんか?

その中でも当時の石川はすごかったです。体は小さかったですが、打席に立った時のキレが素晴らしかったです。小学時代から有名でしたからね。下新城の石川といえば、野球をしている同世代で知らない人はいませんでしたよ。

直接対決した思い出といえば、少年野球なのでストレートオンリーなのですが、攻略困難だったイメージですね。横から見ていると普通のボールなんですが、打ちにいくと差し込まれる。互いに違う中学に進んだわけですが、石川とは違い僕は普通の1年生ですから、声出しやランニングばかりさせられていました。

田んぼに飛び込めとか昭和の時代の部活にありがちな、いじめみたいなことも日常茶飯事でした。だから、この時期には自分がプロ野球選手になるだなんて、本当に想像もつきません。

それどころか、将来のプロ野球選手・藤田太陽が存在しないかもしれない事態が発生してしまいます。

☆ふじた・たいよう 1979年11月1日、秋田県秋田市出身。秋田県立新屋高から川崎製鉄千葉を経て2000年ドラフト1位(逆指名)で阪神に入団。即戦力として期待を集めたが、右ヒジの故障に悩むなど在籍8年間で5勝。09年途中に西武にトレード移籍。10年には48試合で6勝3敗19ホールドと開花した。13年にヤクルトに移籍し同年限りで現役引退。20年12月8日付で社会人・ロキテクノ富山の監督に就任した。通算156試合、13勝14敗4セーブ、防御率4.07。

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