躍進 大崎初の甲子園へ<中> 勝利が「至上命題」 8割は試合前に決まる

夕食後に選手と談笑する清水(右)。牛乳を一人一人に注ぐのが日課だ=西海市崎戸町、大崎高野球部合宿所

 大崎躍進の立役者となった監督の清水央彦。今月、50歳となる指揮官は、高校時代の先輩だった吉田洸二(51)=現山梨学院高監督=が2001年から率いた清峰(旧北松南)でコーチを務めた。その間、日大通信制で教員免許を取得して部長としても手腕を発揮。09年の選抜で日本一に輝いたチームの礎を築いた。
 だが、08年秋、吉田の後任で監督となった直後、野球部の道具で遊んでいた生徒に手を上げた。県教委の処分は文書訓告。慕ってくれる選手もいたが、清峰を去った。09年夏からは佐世保実の監督として12、13年夏の甲子園に出場。再び台頭したものの、13年の大会後、部内の不祥事で日本学生野球協会から謹慎処分を受けた。

■続けた準備

 高校野球指導者として「戻らないといけないという思いと絶対戻りたくないという思いが50パーセントずつだった」という中、準備だけはした。自らの体を鍛え、全国を訪ねた。18年まで智弁和歌山を率いた甲子園最多勝利監督の高嶋仁(74)と高野山に登り、同世代の野球仲間の指導法も参考にした。「ずっと、復帰後のやり方を考えていた」。同時に過去の自分を省みた。「簡単に言えば、子どもだった」
 14年、西海市職員に採用された。人口減にあえぐ市側の「スポーツで地域を活性化できないか」との考えと、清水の「野球でなら役に立てるかな」という思いが一致。16年に謹慎処分が解け、復帰への道筋が整った。18年春、大崎の外部監督に就任。「西海市に拾っていただいた。戻してもらうからには成果、勝つことが至上命題だった」
 それから3年弱。廃部の危機もあったチームは昨秋、九州を制して夢切符をつかんだ。過去を踏まえてさまざまな声もあったが、多くの生徒と保護者に大崎を選んでもらい、結果を出した。
 “1期生”の現3年生の存在も大きかった。準備していた指導法で勝てずに「逡巡(しゅんじゅん)していた」ころ、面談した当時の主将と副主将が「もっときついと思っていました。ぜひ、厳しくお願いします」と言ってくれた。本気になれた。

■強い探求心

 「投球練習は低すぎることを意識させる。四球を出さない投げ方と球速を上げる投げ方は同じ」「自転車に乗れるようになるのと一緒で“動きづくり”をやれば守備はうまくなる」「他の部員が不平を言おうと、主将と副主将には俺の味方につけと言う」…。一つ一つの言葉に経験を基にした根拠があり「それらを徹底して続ければ勝てる」と言い切る。
 特に投手育成は定評がある。2年生エースの坂本安司、九州大会決勝で完投した1年生左腕の勝本晴彦は、そろって「高校で覚えたカットボールが最大の武器」と入学後に投球術を磨いた。
 生活面でも選手と寝食をともにする。練習の厳しさとは一変、笑顔が広がる。夕食後は、くじ引きで1分間スピーチ。坂本は大会で上位に入るほど水泳が得意だったと自慢し、勝本が出身地五島の魅力を紹介した。仲間からの突っ込みも入り、和やかな雰囲気が漂う。
 もちろん休息だけではない。清水の自室テレビの横にはディスクが何枚も積まれている。「勝負の8割は試合前に決まると思う。7割が練習の質と量で残り1割は研究。高校生なら必ず穴がある。それが分かるならやる。そこの探求心は持っているし、特別なことでも何でもない」。夜の寒さの中、屋外で素振りをする選手を横目に、事もなげに言った。(敬称略)


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