デスマッチ路線で頂点に立っていた松永光弘氏だが、そのジャンルとは違うスタイルのレスラーに目をかけてもらったという。往年の名選手、“狂犬”ディック・マードックだ。
【ミスター・デンジャー松永光弘 この試合はヤバかった】マードックはテレビで見ていたスターでした。全日本プロレスで、ジャンボ鶴田さんからUNヘビー級王座を奪取。そして新日本プロレスではハンセンとのタッグ、テキサスロングホーンズ。またIWGPの決勝戦での猪木さんとの死闘が印象に残っています。
私は、デスマッチという独自の価値観でプロレスをやっていましたから、超大物と言えるレスラーとの対戦はほとんどありません。
しかしそんな超大物、マードックとは意外にもいろいろな縁がありました。初めて会ったのは、FMW創成期の旗揚げ初シリーズでした。確か静岡県の会場での乱闘で面と向かって、かなり怖かった思い出があります。
そして開幕戦でバルコニーダイブを決めた、W☆INGの初シリーズでも一緒になりました。この時のマードックは、未熟な我々日本人選手に、“マードックプロレス教室”を開いていました。首を取ってグラウンドに持っていく動作や、腕を決めてグラウンドに持っていく動作を繰り返し練習したものです。
そんなマードックと最終戦でのシングルマッチが組まれました。バルコニーダイブからの流れなので、何とかして勝とうと、細く見える脚を狙ってローキックを繰り出しても、バックステップして、かわされてしまいます。善戦したとは思いますが正直、私には荷の重い相手でした。
その後、控室にあいさつに行った際、試合内容をかなり厳しくアドバイスされ、プロとしての心構えが足りないと注意もされました。
しかしその後のW☆INGの来日時には、周りにもレスラーが大勢いるにもかかわらず、笑顔で私に向けて、手を上げてくれました。気に入ってくれていることはわかりましたが、理由ははっきりわかりませんでした。その後も個人的にプロレスを教えてくれたり、控室で隣に座るように言われたり、ずいぶんかわいがってもらいました。
気に入ってくれていた理由がわかったのは、あることを思い出した時です。
1992年2月のシングルマッチの後、厳しくアドバイスを受けましたが、その時私は、「イエスサー」と答えたのです。マードックは目を丸くして照れ笑いしました。敬称を使われたことがなかったのかもしれませんね。
マードックといえば、人種差別主義者として有名ですが、日本人に対してそんなそぶりは全くなく、また当時来日していた黒人レスラーにも差別する姿勢はありませんでした。年を取ったマードックの人柄が丸くなっていたのか、「人種差別主義者」というのは、黒人のレスラーと抗争するための作られた姿だったのかは私にはわかりません。
49歳で突然の他界でしたが、今でも寂しく感じます。
☆まつなが・みつひろ 1966年3月24日生まれ。89年10月6日にFMWのリングでプロレスデビュー。数々のデスマッチで伝説を作り、2009年12月23日に引退試合。現在は現役時代に開店した人気ステーキハウス「ミスターデンジャー」(東京・墨田区立花)で元気に営業中。