【プロレス蔵出し写真館】脊髄負傷で満身創痍のアントニオ猪木 それでも61分間戦い抜いた!

永源遥(右)と栗栖正伸の肩を借り宿舎に戻った猪木。宿泊客(左奥)もぼう然と見送っていた(広島市内の宿舎「吉川荘」)

2月20日に78歳の誕生日を迎えたアントニオ猪木は、現在、腰の治療で入院中だ。猪木は、自身の公式ユーチューブチャンネルで「元気があれば何でもできるを売り物にしてきた人間が、今度は自分に言い聞かせなきゃいけないという。最強の敵と今闘ってます。俺自身です」と告白した。

猪木は現役時代、数々の強豪と戦ってきた。猪木の代名詞といえば、オールドファンにとってはNWF世界ヘビー級王座(後に世界は削除)だ。

今から47年前の昭和48年(1973年)12月10日、東京体育館でジョニー・パワーズを卍固めでギブアップを奪い待望のシングル王座を獲得した。

猪木は前年の10月4日、東京・蔵前国技館で〝神様〟カール・ゴッチの所有するベルトを実力世界一決定戦としてタイトル戦を行い、リングアウトで勝利し、10日大阪府立体育会館で奪回されるまで、6日天下とはいえ一度はベルトを腰に巻いた。

東京12チャンネル(現テレビ東京)で中継されたこの試合は、王座を奪取した猪木がテレビ解説席でインタビューに答えていると、大勢のファンが会場に残り話に聞き耳を立てていた。インタビューが終わり、ベルトを巻いた猪木が両手を上げると大歓声がこだました。多くのファンが猪木のシングルのタイトル獲得を待ち望んでいたのだ。

さて、猪木のNWF王座は81年4月23日、蔵前でスタン・ハンセンとの王座決定戦に猪木が勝利すると、IWGP構想のため王座が返上され封印。それまで猪木は、シリーズに来日するエース格外国人レスラーと、また海外でも防衛戦を行いトータルで約7年半の間、名勝負&好勝負を生み出した。

初防衛戦の相手は初の大物日本人対決となるストロング小林戦(74年3月19日、蔵前)。今では伝説となっている、投げた後バウンドして一瞬両足が浮き、首だけで支えるジャーマンスープレックスホールドで勝利し、観客、そしてテレビで観戦していたファンを熱狂させた。

タイガー・ジェット・シンとは血の抗争を展開し、腕折り事件を引き起こした。日本プロレス時代の同門対決となった大木金太郎戦では猪木の鬼気迫る表情が、その後トレードマークになり、国際プロレスのエース外国人選手で対決が熱望されたビル・ロビンソンとはスリリングな攻防がファンを魅了した。スタン・ハンセン戦では試合終了後、ハンセンのウエスタンラリアートを後頭部に食らい失神。アッと言わせる逆ラリアートで雪辱したこともあった。

ボブ・バックランドとはWWWF(現WWE)王座とのダブルタイトル戦を行い、ジャック・ブリスコ戦では札束をばらまいた。他にもアンドレ・ザ・ジャイアント、ルー・テーズ、ダスティ・ローデスとの大物対決ではまれに期待外れもあったが、〝猪木だから〟とファンは許容した。

さて、そんな中、最も猪木が苦戦し、まったくいいところがなかった試合もあった。それは78年7月24日、広島県立体育館で行われた〝魔豹〟ペドロ・モラレス戦だ。

この試合の1週間前、猪木はモラレスにイスで殴られ背骨(第四脊髄)を負傷し満身創痍だった。さらにこの日、モラレスのワンハンドバックブリーカーで腰を強打し、腰椎も痛めた猪木だが、2発目のブレーンバスターを狙ったモラレスの肩口からすべり降り、起死回生の逆さ押さえ込みを決め勝利した。

勝負が決まり、バッタリと倒れ込んでしまった猪木…。

控室でも失神状態の猪木は、水をかけられ我に返ったがまったく動くことができなかった。シャワーも浴びずタクシーに乗り込み、永源遙と栗栖正伸に肩を借り何とか宿舎の「吉川荘」に戻った(写真)。宿泊客は、自室に向かう猪木をぼう然と見送っていた。猪木は自室でも倒れ込んだまま天井の一点を見つめたままだった。

3日後の27日、東京・日本武道館で行われるバックランドに挑戦するWWWFヘビー級選手権に暗雲がたれ込めたが、61分3本勝負で行われた試合は、1―1から時間切れ引き分け。何と猪木は〝脊髄挫傷〟の状態で61分を戦い抜くという驚異の精神力を見せたのだった。

現役時代、信じられない精神力で肉体を凌駕してきた猪木。今回も、最強の敵に負けず〝リング〟を降りてほしい(敬称略)。

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