先人に会いたい 長崎の史跡墓所めぐり<2> 静かに眠る写真術の祖 上野彦馬の墓地

上野彦馬の墓碑(右から2基目)。左上の木々の間に坂本龍馬像と海援隊旗が見える=長崎市伊良林3丁目

 日本の写真術の祖として知られる上野彦馬(1838~1904年)の墓は、長崎市の風頭公園に隣接する上野家の墓地内にある。すぐ横に展望所があり、長崎港を見下ろすように坂本龍馬像が立つ。公園を下ると、龍馬らが結成した商社「亀山社中」跡がある。一帯は、龍馬をはじめ幕末・維新の志士たちの足跡が残る場所。彼らの写真を撮り、その姿や表情を現代に伝えた彦馬は、龍馬像と並ぶように静かに眠っている。
 彦馬は1862(文久2)年に、中島川のほとりの自邸(新大工町)で上野撮影局を開業した。長崎に来た多くの志士や外国人らが撮影に訪れた。撮影局は繁盛し、後にウラジオストクや香港、上海にも支店を開いた。
 事業家としても成功した彦馬だが、その道のりには労苦も多かった。
 彦馬は長崎の銀屋町に生まれた。上野家は代々絵師の家柄。父・俊之丞(しゅんのじょう)は蘭学者で、御用時計師も務めた。ダゲレオタイプという実用的写真術を日本で初めて輸入した。彦馬が14歳頃に俊之丞が亡くなる。父の死後、漢学やオランダ語を学んだ後、長崎の医学伝習所でオランダ軍医ポンペから舎密(せいみ)学(化学)を学ぶ中で、写真を知り、研究を始めた。長崎に来た外国人写真家から写真撮影の技術を学んだ彦馬は、江戸に行き、そこでも大名など多くの人物を撮影。その後もさまざまな経験を経て長崎に戻り、撮影局を開く。
 彦馬の人物像については、実弟・幸馬(さちま)の孫に当たる上野一郎さん(故人)が、その父・陽一さん(故人)から聞いた話を踏まえ「内向的でもの静か、無口、技術者タイプ、研究熱心というように要約できると思う」(「古写真研究 第1号」94年4月、長崎大学古写真研究会)と書いている。一方で、丸山遊郭に通うなど、彦馬の別の一面にも触れ、妻・むらの心労を思いやっている(同)。
 幕末・維新の動乱期を共に生きた人々や、建物、街の風景などを写真にとどめ、目に見える形で後世に残した。西南戦争の記録写真を撮影した報道写真の先駆者でもある。後進を育て、多くの写真家を輩出した。数々の業績を残し、日露戦争が始まった1904年に66歳でこの世を去る。彦馬は、龍馬ら志士たちとどんな会話をしたのだろうか。「無口な」彼は、ただ黙々と撮影したのかもしれない。

◎メモ

 「上野(彦馬)家墓地」
 長崎市指定史跡
 指定年月日=2006年1月10日
 所在地=晧台寺後山墓地(長崎市伊良林3丁目)

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