IOC会長が東京五輪で中国「ワクチン外交」に協力した理由 北京冬季のボイコット回避狙いも

IOC総会に出席したバッハ会長=12日、ローザンヌ(ロイター=共同)

 唐突な表明に波紋が広がった。国際オリンピック委員会(IOC)のトーマス・バッハ会長(67)=ドイツ=は3月11日、オンライン形式で開いたIOC総会の冒頭で、中国が東京五輪・パラリンピックの参加者向けに新型コロナウイルスのワクチン提供を申し出たと明らかにした。日本側に事前の相談や根回しもなく、数量やコストは非公表だが、費用はパラリンピック分を含めてIOCが負担すると説明。感染力が強い変異株が世界で拡大する中、来年の北京冬季五輪・パラリンピックの出場者も対象となる。

 「ワクチン外交」で影響力拡大を図る中国。コロナ禍で「五輪反対」の国際世論に苦慮するIOC。北京五輪では中国政府による新疆ウイグルやチベットの自治区での少数民族に対する弾圧、香港での統制強化が問題視され、欧米を中心にボイコットや開催地の変更を求める圧力が強まっている。背景には開催実現に向けた「切り札」としてワクチンの積極活用を推進するIOCと中国側が東京、北京両五輪の「共倒れ」危機を共有し、ボイコット論を回避する狙いもありそうだ。(共同通信=田村崇仁)

  ▽IOCと中国は「ウインウインの関係」

 「IOCと中国は少なくともウインウイン(相互利益)の関係だ。東京大会にとっても参加国のワクチン接種が進むのは悪い話ではないというスタンスだろう」。IOC古参委員に確認してみると、今回の中国産ワクチン提供をこう解説してくれた。しかしワクチンの確保、接種が遅れる日本にとっては「蚊帳の外」に置かれた印象が拭えない。

IOC総会後、取材に応じる東京五輪・パラリンピック組織委の橋本聖子会長(左)と武藤敏郎事務総長=11日夜、東京都中央区

 「日本の代表選手がワクチンを打つのはいつになるのか?」。11日、東京五輪の準備状況を説明したIOC総会のセッションで、女性のガラドアリ委員(ジブチ)から質問が出た。大会組織委員会の武藤敏郎事務総長は「医療従事者が2月から始まり、高齢者は4月からになるが、選手については政府から明確なタイムラインの発表がない」と回答。もともと日本はワクチンを前提としないコロナ感染対策をIOCと進めてきたが、欧州や中東を中心に既に五輪選手のワクチン接種が始まっている状況もあり、世界から選手を受け入れる開催国の遅れを露呈した形となった。

 ▽中国と急接近、日本の対応遅れ不安視

 IOCには日本のワクチン政策を不安視する声も広がっている。バッハ会長は昨年11月に来日した際にも東京五輪の参加者に「義務化はしない」とした上で訪日前の接種を推奨し、IOCが費用負担などで支援する意向を表明。こうした情勢の中、中国はワクチンを緊急に必要とする発展途上国69カ国に無償で提供し、五輪も「ワクチン外交」を広げる絶好の機会と捉えている思惑もあった。

 近年はビジネス面でもIOCと中国は急接近し、2022年冬季五輪の北京開催が決定後、中国の電子商取引(EC)大手アリババグループと28年まで、乳業大手の中国蒙牛乳業と32年までの長期契約を新たに結んだ。五輪のワクチンを巡って調達法など詳細は不明だったが、中止リスクを少しでも抑えたいIOCが「中国側の申し出を断る理由はなかった」(大会関係者)ということだろう。

IOC会長選で再選されたバッハ会長=10日、スイス・ローザンヌ(IOC提供・共同)

 中国製ワクチンに関してはフランスのマクロン大統領が2月に「(科学的な)情報が全くない」と安全性を疑問視しているが、バッハ会長は日本と中国の政治的な関係性やメンツも度外視し「中国オリンピック委員会から親切な申し出を受けた。五輪の連帯の精神に基づく提案に感謝する。東京大会の安全性を確保する上で非常に画期的なことだ」と満面の笑顔で歓迎のコメントを表明した。

 ▽ワクチン適用は「各国判断」

 突然の中国製ワクチン提供は206カ国・地域の国内オリンピック委員会(NOC)からも問い合わせが殺到し、比較的好意的な反応だったようだ。日本では中国製ワクチンは未承認。IOCのジェームス・マクロード担当責任者は12日、ワクチン運用について「保健当局が承認した国だけに適用される」と補足説明した。つまり中国製ワクチンを承認している国・地域を対象にしたもので「各国の指針や規則に従うことがIOCの原則」ということだ。

 バッハ会長は「どこの製造かは関係ない。重要なのは有効か、副反応がないかだけだ」と購入は正しい判断だったと主張。選手の接種を優先させるかの判断には「政府の責任。IOCは干渉しない」と中立の立場を強調した。

▽難題山積も異論なし、強まる独裁色

 そんな話題の裏で北京冬季五輪に反対する国際人権団体のメンバーらがIOC総会に合わせてオンラインで会議を開催し、北京五輪反対をアピールする場面もあった。「ジェノサイド(民族大量虐殺)を続ける独裁政権へのお墨付きとなる」と指摘し、バッハ会長に「中国の圧政に目をつぶらず、五輪開催を考え直すべきだ」と再考を呼び掛けた。

オンラインの記者会見で、北京五輪の開催反対を訴える活動家ら=12日(共同)

 一方、3日間のIOC総会で中国を巡る人権問題は各国委員から質問すら出なかった。難題山積の東京五輪でもコロナ対策で懸念の声や異論もなく、危機感に乏しい会議ともいえた。対抗馬がいない改選で唯一立候補したバッハ会長が再任されると、称賛と祝福の嵐。専制国家の君主のような雰囲気に包まれた。100人超の委員のうち、半分以上は13年9月のバッハ会長就任後に就任した面々。重要な局面で挙手での採決を提案し、反対の声を封じる方法はサマランチ元会長時代に学んだといわれる。うるさ型の長老でなく、いわゆる「わきまえた人」を重用して「独裁色」を強めるバッハ流の手法はどこか危うさもはらむ。

 ロシアの国ぐるみのドーピング問題を巡る対応ではプーチン大統領との親密な関係がささやかれ、18年平昌冬季五輪ではアイスホッケー女子で韓国と北朝鮮の南北合同チームを結成させて南北融和を演出した。今回のワクチン問題でもそうだが、国家的事業となった五輪の肥大化に伴い、歴代会長と比べても「政治」との距離の近さが際立つ。

 ▽バッハ会長自らボイコットに反論

 賛成93、反対1(棄権4)で圧倒的な信任票を得て「無風」で再選され、25年まで続投が決まったバッハ会長は12日のIOC総会最終日の記者会見で、北京のボイコット騒動にも初めて本格的に言及し「政治からの中立の立場」を盾に「これは各国政府が責任を果たすべき問題だ」との見解を示した。

 フェンシングで1976年モントリオール五輪団体金メダリストであるバッハ氏は自らの選手時代、旧ソ連のアフガニスタン侵攻を理由に80年モスクワ五輪がボイコットされた当時の経験を引き合いに出し「人々は歴史から学ぶべきだ。ソ連の撤退はボイコットから9年後。五輪をボイコットしても何も達成できていない。アスリートが犠牲になるだけだ」と反論。その上で「IOCは国連安全保障理事会やG7(先進7カ国)、G20でも解決策を持たない問題を解決できるようなスーパーな『世界政府』ではない。自分たちの範囲内で責任を果たす」と述べるにとどめた。スポンサー企業を抱える中国への配慮がのぞく一方、機微に触れる微妙な問題には中立を強調する姿勢が目立った。

 ▽金メダリストの声、必要な説得力と根拠

 北京五輪を巡っては、バイデン米政権も米国の参加を「最終決定していない」と慎重な姿勢を示している。人権問題では最近、アルペンスキーで冬季五輪2個の金メダルを獲得しているミカエラ・シフリン(米国)が海外メディアに「誰もが人権やモラルと、仕事をできるかどうかの間で選択を求められる立場に置かれたくはない」と指摘。「世界を一つにして希望と平和を生み出す大会を招致する際には、もっと検討が必要だ」として開催地に複雑な胸中を明かすアスリートも出てきている。

2019年2月、アルペンスキー世界選手権の女子回転で4連覇し、金メダルを掲げるミカエラ・シフリン=オーレ(ロイター=共同)

 長引くコロナ禍で倒産や失業が相次ぎ、医療崩壊の危機も叫ばれる今、日本国内で逆風は収まらず、今夏の五輪開催に風当たりは依然として強い。バッハ会長は五輪のスローガン「より速く、より高く、より強く」に「一緒に」を加え、コロナ禍の今だからこそ「団結」が必要だと訴えた。だが開催に懐疑的な国際世論との隔たりは埋まっていない。

「7月の開幕を疑う理由はない」と強調するバッハ氏は発言を裏付ける説得力や世論を高める根拠がまだ足りないのではないか。長期政権でIOCの実権を掌握する剛腕会長に求められるのは、コロナ禍で苦しむ人々に届くオープンな議論と姿勢だろう。

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 トーマス・バッハ氏 76年モントリオール五輪のフェンシング男子フルーレ団体で金メダル。81年のIOC選手委員会発足時メンバーとなり、91年にIOC委員就任。96年に理事に初当選し、副会長などを歴任。IOCを法務委員長など実務面で支え、東京が20年夏季五輪開催都市に決まった13年9月のIOC総会で第9代会長に選ばれた。元ドイツ・オリンピック委員会会長。ビュルツブルク出身。弁護士。67歳。

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