つねに当事者であれ。ブルーハーツが教えてくれた危うくも純粋な青い心 1987年 2月25日 ザ・ブルーハーツの自主制作シングル「人にやさしく」がリリースされた日

衝撃的だった甲本ヒロトが叫ぶ歌詞、ブルーハーツとの出会い

ブルーハーツを語るということは、僕の少年時代の青く恥ずかしい心情にも触れなくてはならない。

ご存じのように1987年5月1日、シングル「リンダ リンダ」で華々しくメジャーデビューを飾るブルーハーツだが、ちょうど1年前の1986年5月、日付は忘れたが、彼らのライブを法政大学の講堂で目にしている。それは、僕にとって偶然の必然だった。

前年の1985年12月24日、ブルーハーツは『世界一のクリスマス』と題されたワンマンライブで、「1985」のソノシートを無料配布。それなりに話題になっていたはずなのだが、17歳の僕はブルーハーツという名前を知る由もないまま、『宝島』誌が言うところのストリートパンクに現を抜かしていた。

その日はニューヨークパンク直系の ザ・ゾルゲ、ガールズバンドとして頭角を現していたキャ→を目当てに出かけたように記憶している。そこに登場したブルーハーツはシークレットのゲストだったらしく、出演リストには「リンダ リンダ」と最後に記されていた。

訳が分からないまま登場した彼らに、まさにハンマーで頭をぶっ叩かれたような衝撃を受けたのは、クラッシュスタイルのシンプルかつラウドなロックンロールだけでなく、坊主頭のヒロトが叫ぶその歌詞にあった。

 気が狂いそう やさしい歌が好きで
 ああ あなたにも聞かせたい
 (「人にやさしく」より)

 外は春の雨が降って
 僕は部屋で一人ぼっち
 夏を告げる雨が降って
 僕は部屋で一人ぼっち
 (「ハンマー」より)

カッコ悪いことは なんてカッコイイんだろう!

それまで僕にとって、パンクは70年代後半にロンドンで生まれた “初期衝動を踏襲した反逆” という様式美であって、そこで様々な音楽を吸収していくことが、なにも取柄のなかった自分にとってのたったひとつの誰にも譲れない価値観だった。同時にその根底には、自らの現実を直視して、省みることが出来ない不安が常に存在していた。

しかし、ブルーハーツは違った。カッコ悪くたっていいんだよ。そんなこと問題じゃない。今、この瞬間を感じることが大切なんだと語りかけてくれた。

「カッコ悪いことは なんてカッコイイんだろう!」

音楽、それもパンクロックしかなかった自分にとって、天地がひっくり返るような衝撃だった。それは、今思うと、ジョー・ストラマーが言うところの「月に手を伸ばせ。たとえ届かなくても」でもあり、詩人ランボオのいうところの「何が永遠か。海に溶け合う太陽が」でもあったりした。

つまり、この瞬間を生きるためには、カッコ悪い自分と向き合わなくてはならない。そして、理想と現実の狭間で苦悩する、その瞬間の切なさこそがすべてであり、それがロックンロールなんだということを、ヒロトは分かりやすい言葉で僕に教えてくれた。

この2曲を聴くと、バブル直前で浮かれながらも、どこか虚しさを感じた当時の街の空気感、あのライブがあった春から夏に変わろうとする陽ざしの穏やかさが心の中でリフレインする。そして今でも17歳の自分に戻ることができる。

ヒロトのMCで衝撃発表、レコード会社と契約

その日からメジャーデビューまでの1年間、彼らの出演する東京のライブには、ほとんど出かけ、昇っていく様を見る事が出来た。そして、当時彼らのファンクラブであった青心会にも入会。毎月送られてくる、メンバーの直筆をコピーした手作りの会報を楽しみにしていた。

そこでよくマーシーはクラッシュやメイタルズなどのレベルミュージックを中心に歌詞の意訳を書いていた。つまり、「僕にはこんな風に聞こえる」というやつだ。これが楽しみで、言葉を通じてのロックンロールを体現することができた。

そうしたブルーハーツとの関わりの中で、今でも鮮烈な記憶として残っているのが、1986年10月1日渋谷ライブ・インで行われた『ワン、ツー パンチ!!』と題されたライブ。その時、アンコールで出てきたヒロトのMCはこうだ。

「さっき、ブルーハーツはレコード会社と契約してきた。それで、少しでもブルーハーツが変わったと思うやつがいたら、その時は金返す!」

この言葉を聞いた瞬間のライブ・インの暗闇は30年たった今でも脳裏に浮かび上がってくる。そして、これから変わっていくのは僕じゃないかという一抹の不安を感じたことも。

青い心のままで突っ走ったブルーハーツ

しかし、90年代になっても、そして今もブルーハーツは僕の傍にいた。季節の移り変わりの中、彩りを確かめながら、1986年の5月にコミットした十代の激情と切なさをそのままに。

彼らもまた、初期衝動そのままのファースト、セカンドを発売。当時のパンク愛好家のみでなく、全国の多感な十代の心を丸裸にし、多くの人に自らと対峙できる勇気を与えてくれた。ブルースに傾倒したサードアルバム『TRAIN-TRAIN』までを80年代に発表、その後の活躍も周知のとおりだろう。

ここに書いたものは、僕とブルーハーツのきわめて個人的な物語だ。そして、あの時、東京で、ブルーハーツと関わり、彼らの初期衝動とコネクトしたすべての人の心に、このような物語が綴られているのだと思う。

ブルーハーツは「つねに当事者であれ」というスタンスで青い心のままで突っ走った。そして、危うくも純粋な「青い心」は、今も80年代を生きた多くの人の心に突き刺さっている。

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※2017年5月20日、2019年3月17日に掲載された記事をアップデート

カタリベ: 本田隆

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