【伊藤鉦三連載コラム】マッサージした星野仙一さんが「お前も中日に来い」

中日新監督に就任した星野氏。右は中山球団社長

【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(2)】「先生、こいつのヒジはどうですか。使いものにならないなら、トレーナーにしてやってください」

高校の大先輩である金田正一さんが巨人軍の小守良勝トレーナーを紹介してくれたこともあり、私は野球を断念して日通浦和を退社。バイトをしながら3年間、日本鍼灸理療専門学校に通い、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得して「小守スポーツマッサージ療院」でトレーナーとしての修業を重ねました。

その後、静岡県にあるヤマハ発動機が野球部を創設するということでトレーナーとなりました。社会人チームとしては日本初の専属トレーナーだったのですが、残念ながらチームは4年ほどで解散。そこで私は地元の名古屋に戻り、金山で「伊藤スポーツマッサージ」という治療院を始めたのです。私自身が野球経験者でしたから野球に関する知識もあります。何より、私のように故障で苦しむプレーヤーを何とか助けたい。そんな思いでやっているうちに郭源治をはじめとする中日ナインや当時、名商大の学生だった大豊泰昭ら多くの野球選手が来院するようになっていきました。

1986年の秋ごろのことです。NHKの人気解説者だった星野仙一さんの知人が私の診療所に通っていたことが縁で、星野さんの自宅に行ってマッサージをすることになったのです。私の方が1学年上ですが、初対面の星野さんにはやはり何とも言えない迫力や雰囲気がありました。当時、星野さんは首を痛めていたのですが、私が施術したマッサージが気に入ってくれたのか突然、こう言われたのです。「オレは来年、ドラゴンズの監督をやる。だからお前も中日に来いよ」

この年、ドラゴンズは山内一弘監督3年目でしたが、成績不振の責任を取るため7月に休養。コーチだった高木守道さんが代理監督を務めましたが、結局5位に終わりました。そこで球団はチームを改革するため当時まだ39歳だった星野さんに白羽の矢を立てたわけですが、そんなことを知らない私はビックリです。しかし私も左ヒジの故障で断念しましたが、プロ野球選手になることが子供のころからの夢でした。地元の中日ドラゴンズには愛着があります。プロ野球の世界で働ける。星野さんからの誘いはやっぱりうれしかった。そこで治療院を畳んで中日ドラゴンズのトレーナーとして働くことを決め12月から中日球団でお世話になることになったのです。

「オレはドラゴンズをビシッと変えてやるから」。39歳の若さで監督に就任することになった星野さんは燃えてました。星野さんの自宅の庭にはなぜかボクシングで使用するサンドバッグが設置されていました。「野球は格闘技だからな。オレはこれで鍛えているんだ」。そう言って笑っていた星野さんでしたが、87年から始まった第1次星野政権のドラゴンズはまさに格闘技にも負けない「激しさ」や「熱さ」を持ったチームに生まれ変わっていったのです。

☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2007年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。

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