【伊藤鉦三連載コラム】日本一取れず…星野監督のバスの中での絶叫にみんな顔面蒼白

ビールかけのない祝勝会で食事をする宇野

【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(8)】第1次星野政権が誕生したときに星野監督からスカウトされて中日に入った私は、2年目(1988年)からチーフトレーナーとなりました。この年は4番・落合やルーキー・立浪らの活躍で夏場からチームは快進撃。10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)に勝利して、ドラゴンズは6年ぶり4回目のリーグ優勝を決めました。

昭和天皇が入院されていたこともあって日本中が自粛ムード。ビールかけや優勝パレードは行われませんでした。それでも私にとって初めて経験したプロ野球での優勝。本当にうれしかったですね。

日本シリーズは森監督率いる西武ライオンズが相手でした。ナゴヤ球場での初戦でいきなり西武の4番・清原が場外ホームランをかっ飛ばしたのとは対照的に、中日の4番・落合のバットは湿りっぱなしでチームは苦戦。西武球場での第5戦では延長11回にリリーフエースの郭源治が伊東(現中日ヘッドコーチ)にサヨナラ打を浴びて1勝4敗で敗れ、星野ドラゴンズは日本一になることはできませんでした。

西武に敗れて西武球場から東京・立川のホテルに帰るバスの中のことです。長かった1年間の戦いが終わったということでホッとした気持ちもあったのでしょう。日本シリーズでの敗戦直後だったにもかかわらず、後ろの方の席からある選手の笑い声が聞こえてきたのです。

「バスの中で笑っとったヤツがおったな。そんなチームが勝てるわけがない。セ・リーグで勝っても何にもならんわ!」

ホテルに戻った後のミーティングで星野監督は怒っていました。「このシーズンオフが大事だから、みんな気を抜かずに調整するように」。そう訓示して選手は解散。この年最後のミーティングは何とも重苦しい雰囲気のまま終わりました。

選手が会場から出ていった後に残ったのは星野監督とコーチ、それに一部のチームスタッフでした。すると星野監督はいきなり私たちの前で床にヒザと手をついてこう言ったのです。「みんな、ありがとう。俺みたいなわがままなヤツについてきてくれて…。本当にありがとう!」。よく見ると星野監督の目からは涙があふれていました。

「監督、やめてください」「手をあげてください」。あの星野監督が自分たちの前で頭を下げて泣いている。みんな驚いていましたが、それと同時に心にジーンとくるものがありました。「監督、また来年頑張りましょう!」。池田英俊投手コーチの言葉がその場にいたコーチ、スタッフ全員の気持ちを表していたと思います。

厳しさを前面に出していた星野監督ですが、情の深さや人を引きつける魅力は私がこれまで出会った人の中でも間違いなく一番でした。その類いまれなカリスマ性があったからこそ、Bクラスだったチームを就任1年目で2位、2年目でリーグ優勝に導けたのだと思います。とはいえ、日本シリーズでドラゴンズの良さをまったく発揮することができずに敗れたことは本当に悔しかったのでしょう。

「止まるなあああ! そのまま行けえー!」

名古屋へ戻るため、立川から東京駅に向かうバスの中。信号が青から黄色に変わり交差点で停車しようとした運転手に星野監督は叫んでいました。もちろん運転手もバスに乗っていた選手たちもみんな顔面蒼白となったのは言うまでもありません――。

☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2007年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。

© 株式会社東京スポーツ新聞社