【伊藤鉦三連載コラム】高橋周が開花したのは谷繁監督の熱心な指導のたまもの

高橋周の打撃練習を見守る谷繁監督(左)

【ドラゴンズ血風録~竜のすべてを知る男~(24)】「もうここはない」。2011年12月3日の優勝パレードの後、私にドラゴンズとの決別を宣言してチームを去っていった落合監督ですが、2年後の13年10月に何とGMとして中日に戻ってきました。そして落合GMが退任した高木監督に代わって指揮官に指名したのが谷繁元信捕手。ドラゴンズでは59年ぶりに選手兼任監督が誕生したのです。

このころのドラゴンズは落合監督時代に活躍した選手たちがみんなベテランとなり、新戦力の台頭が望まれていました。それだけに谷繁監督はこれからのドラゴンズの柱になる選手を育てようと必死でした。そんな谷繁監督が何とか一人前にしようと一生懸命に指導したのが11年のドラフト会議でオリックス、ヤクルトと3球団競合の末、ドラゴンズが1位で獲得した高橋周平でした。

指揮官1年目のある日、谷繁監督は昇竜館にやって来て「部屋を見せてください」と3年目の高橋周の部屋をチェックしたのです。寮には何人もの若手選手がいましたが、谷繁監督が入ったのは高橋周の部屋だけでした。部屋の中を見て整理整頓がちゃんとなされているのかなど、しっかりと見ていましたね。

それだけではありません。高橋周は字があまりきれいではなく、サインも何が書いてあるのかわからなかったのですが「お前の字はダメだ」と谷繁監督はマンツーマンで高橋周にサインの指導を行ったのです。30分ぐらい紙に何度も書かせてそれなりの形のものに仕上げていました。

谷繁監督がここまでしたのも高橋周が将来ドラゴンズを背負って立つ選手になると考えていたからでしょう。汚い字のサインではファンに対しても失礼ですし、部屋の整理整頓をはじめ、きちんとした生活を送ることが一流プレーヤーへの近道だと考えていたのだと思います。

さらに谷繁監督が中日に呼んだ佐伯二軍監督も熱心に高橋周を指導していました。つきっきりで1000球以上ティーバッティングを行っていたこともあります。時間にして2時間近くバットを振り抜いているのですから、ものすごい練習量です。指導する方も相当な熱意がないとできません。

現在、高橋周はドラゴンズのキャプテンとなりクリーンアップを打っていますが、一流プレーヤーとして開花したのも谷繁監督や佐伯二軍監督の「ドラゴンズを代表する選手になってほしい」という思いがあったからでしょう。

こうして熱心に若手選手を育てようとしていた谷繁監督でしたが、ペナントレースでの成績は芳しくありませんでした。というのも谷繁監督VS落合GM&森ヘッドコーチの図式ができてしまい、チームは空中分解寸前だったからです。

☆いとう・しょうぞう 1945年10月15日生まれ。愛知県出身。享栄商業(現享栄高校)でエースとして活躍し、63年春の選抜大会に出場。社会人・日通浦和で4年間プレーした後、日本鍼灸理療専門学校に入学し、はり師・きゅう師・あん摩マッサージ指圧師の国家資格を取得。86年に中日ドラゴンズのトレーナーとなり、星野、高木、山田、落合政権下でトレーナーを務める。2007年から昇竜館の副館長を務め、20年に退職。中日ナイン、OBからの信頼も厚いドラゴンズの生き字引的存在。

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