【加藤伸一連載コラム】1年生で唯一のベンチ入り 地元紙にも記事が!

自宅で背番号15のユニホームを着てポーズを取る筆者

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(6)】僕が入学した1981年、倉吉北高校は前年春から3季連続で甲子園に出場していました。しかも入学前の選抜大会では学校始まって以来の4強入り。2年連続となる夏の甲子園行きをかけて、レギュラー陣の士気が高まっていたのは言うまでもありません。

そんな中で1年生ではただ一人、僕だけが背番号15の控え投手としてメンバー入りを果たしました。5月初旬に倉吉西戦で初登板を飾り、その後は倉吉工や米子東を相手に力投。同月末の倉吉東戦で3回無失点と結果を出して徳山一美監督にも認めてもらえたのです。

ちょっと手前みそになりますが、期待の1年生だったのです。大会前には地元紙、日本海新聞の「めざせ甲子園」という参加21校を順に紹介していく100行ほどの特集記事で「将来性豊かな本格派投手」として、本文の半分を使って倉吉西中学校時代に中部大会を制した経歴や意気込みなどを取り上げていただきました。

改めて当時の記事を読み返してみたら、夏の県大会を前に「何とかやれそうな自信がついた」やら「同じ倉吉西中出身の谷口さんの活躍はすごく励みになる。外人部隊の倉吉北といわれないためにもがんばり、谷口さんのミット目がけて思い切って投げまくりたい」といった僕のコメントが載っていました。果たして本心で言っていたのか、記者さんに乗せられ“言わされて”いたのか分かりませんが、目を輝かせていたのは事実です。

直前の選抜大会でベスト4入りしていた倉吉北は招待試合も多く、夏本番を前に遠征も重ねていました。それはそれでいいことなのですが、何せ1年生は僕一人。遠征では雑用係のようなものでした。メンバーはレギュラー全員を含めた11人が3年生で、2年生4人。「ノー」と言えない状況で、登板前だろうが関係なしに荷物運びやスパイク磨き、洗濯、マッサージと、ありとあらゆる雑務が僕の仕事になりました。どこに“地雷”が埋まっているか分からないので、気の休まる暇もありません。

ただ、徳山監督は投手としての僕を評価してくれていたようです。その証拠に、大会直前には大事な初戦の先発を言い渡されました。相手は部員わずか11人の米子高専。プレッシャーはありましたが、倉吉北の打線をもってすれば怖い相手ではありません。

僕にとって晴れの舞台となるはずだった夏の鳥取県大会は7月22日が開幕。倉吉北の初戦は大会2日目の正午から倉吉市営球場で行われる予定でした。しかし、残念ながら倉吉北が夏の県大会に出場することはありませんでした。きっかけとなったのが大会前日にあたる21日付の毎日新聞のスクープ記事です。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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