「寝ていない、疲れたと感じる余裕もなかった」立憲民主党・枝野幸男代表の素顔に迫る!

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今回は2021年5月14日に公開された対談の様子をご紹介。ゲストは立憲民主党・枝野幸男代表です。子供のころのエピソードから国会議員になるまで、そして官房長官としての役目が終わるまでの枝野代表の歩みに迫りました。

子供のころから選挙の開票速報が好きだった

幼いころから政治家か歌手になりたかったという枝野代表。特に田中角栄氏の存在が子供心にも気になっていたそうです。なんと初の選挙は小学生のころの児童会長選挙でした。

乙武氏が「子供のころに好きだった政党は?」と質問すると、「自民党の三木派が好きで、社会党にはまったく興味がありませんでした」と衝撃の告白。

小学生の頃から国会中継に親しみ、選挙があると開票速報のテレビ番組を「面白い」と思いながら見ていたそうですが、中学生になった枝野代表は弁護士を志すようになります。

枝野代表は自身が政治家の家系ではないこと、地盤を持っていないことを冷静に捉え、いずれは国会議員になるための置き石として弁護士という職業を選択しました。

他にもジャーナリストや官僚といった職業に就くことも考えたそうですが、法律を学んで国会議員になってからも活かすことができ、仕事のキャリアを潰すことなく選挙にも出られる職であることは弁護士という職業の大きなメリットであったようです。

日本新党、初めての公募。選挙は何をしたらいいか分からなかった

弁護士を務めていた枝野代表は、日本新党の公募に合格し、国会議員として歩み始めます。しかし、右も左も分からない状態での初めての選挙には大変苦労したようです。

枝野代表は「(自分は)泡沫候補扱いされていたし、ハンドマイクをどこで買えばいいのかも、選挙カーをどうしたら作れるのかも分からなかった」と当時の苦労を口にしました。

それでも先輩議員のサポートが手厚い自民党のような大きな政党ではなく日本新党を選んだのは、当時の自民党が時代に合わないと感じていた中、日本新党が1つの旗を立てようとしているように感じたからだそうです。

選挙区についても「国道16号線沿いは無党派層が比較的多い土地」と分析。親戚が住んでいた地域であったこと、土地勘があったこと等の要素も後押しし、出身県である栃木県ではなく埼玉県から立候補することになりました。

官房長官から解放された時に、ホッとした自分に気付いた

28年間国会議員を務めている枝野代表ですが、最も辛かった時期は2009年の9月から11月にかけての時期だといいます。

当時は民主党政権が誕生し、周りの議員は初めてのことでいつも忙しそうにしていました。ところが当時無役であった枝野代表は「仕事がないことが辛かった」と当時を振り返ります。一方で「(民主党政権を)外側から冷めた目で見ることができた経験は今の財産」と前向きな言葉も飛び出ました。

話題は官房長官時代に経験した2011年の東日本大震災へ。Twitterで「#枝野寝ろ」というハッシュタグがトレンド入りするほどの働きぶりを見せていた枝野代表ですが、当時は官房長官の仕事が大変だということや疲れていること、もはや寝ていないことすら自覚する余裕は無かったといいます。

疲れを自覚したのは2012年12月。民主党政権が終わり、枝野代表は官房長官という役目から解放されました。もうしばらく大臣になることはないんだと分かったとき、枝野代表は「ホッとした自分に気付いた」そうです。

枝野幸男氏プロフィール

1964年栃木県生まれ。東北大学法学部卒業後、弁護士業を経て政界へ。日本新党の候補者公募に合格し、1993年衆議院議員に初当選。以後再選を重ね現在は9期目を務める。旧民主党政権時には内閣官房長官等を歴任した。2017年には自身を中心に旧・立憲民主党を結党。解党後に結党された新・立憲民主党でも代表を務めている。

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