大坂選手の自由奪った「ビジネス」 主催者とメディアが無自覚な記者会見の本質

By 佐々木央

テニスの全仏オープン女子シングルス1回戦の大坂なおみ。試合後の記者会見を拒否した=30日、パリ(ゲッティ=共同)

 どう考えたらいいのだろう。テニスの大坂なおみ選手が全仏オープンで試合後の記者会見を拒否して罰金を課せられ、結局、大会の場から姿を消すことになった。

 記者になって30年以上、記者会見という場には、「聞く側」としてしか出席したことがない。だから、「聞かれる側」の戸惑いも緊張も、栄光も屈辱も経験したことはない。会見の場がどのようなものであるかを実感的に知っているとはいっても、取材者としてのそれでしかない。それでも大坂選手の主張することには、深くうなずくところがあった。(47NEWS編集部・共同通信編集委員=佐々木央)

大会を棄権することを表明した大坂なおみ選手のツイッター。「うつ」や「気分の落ち込み」を意味する「depression」の単語が見える

 ▽取材する側とされる側の非対称性

 取材という行為における取材者と被取材者の非対称性、ある種の抑圧性に気づいたのは、いつごろだったか。「非対称性」という言葉を、ここでは「交換可能でない関係、対等でない関係」といった意味で理解してほしい。

 もしかしたら、記者として駆け出しのころ、ある大手企業が倒産し、トップセールスマンが自殺した時だったか。彼が新築した家を訪ね、妻と短時間、話したが「営業成績に水増しがあったのではないか」とは聞けなかった。追及する材料も足りず、もともと無謀な直撃だった。大切な人を亡くしたばかりの人に、それができるはずもなかった。

 もしかしたら、1989年に警視庁池袋署詰めだったころ、ホテトル嬢が客に殺された事件の時だったか。彼女の同情に値する身の上をある全国紙が書いたことで、上司に「うちも読み物を出せ」と指示された。彼女の仕事仲間とはもう連絡が付かない。遺族に聞くしかなかったが、彼女の実家のインターホンを、私はどうしても押すことができなかった。

 こうした取材行為を根本で支えるのは、いきなり大仰な言い方になるが、市民の「知る権利」である。たとえ個人的には興味がなくても、あるいはやりたくない仕事であっても、人々が知りたいはずだと考えて、記者たちは取材を始める。

 強制的な捜査権はないから、お願いするほかないのだが、それでも多数で取り囲めば、相手は強い圧迫感を覚えるだろう。たった1人の記者でも執拗(しつよう)に追いかければ、おそろしいと思うかもしれない。

 記者会見は「多数の記者」対「1人または少数の人」という形式が通例だから、取材される側には、それだけで気おされる人も多いと思う。

 ▽応答も弁明もしない人たち

 では首相など権力者の記者会見はどうか。

 本質的な意味では、この「聞く―聞かれる」という非対称性は潜在する。しかし、握っている情報の質と量には、圧倒的な格差がある。会見の場でやりとりされるのが情報であってみれば、その場を支配する力の優劣はおのずから明らかだ。

 現状の首相会見のように、官邸が質問者を指名し、質問回数も制限するといった運営ルールなら、なおさらだろう。だから権力者はほとんど傲慢(ごうまん)に振る舞い、質問を無視したり、はぐらかしたりして、恬(てん)として恥じない。

 社会的に極めて重要な地位にいて、ある場合は国家の行く末や個人の死活をも左右する決定を下しながら、個別の判断について記者会見を一切しない人たちも存在する。「裁判官は弁明せず」という慣行は有名だ。判決に書かれていることが全てであるとして、それ以上の説明も解説もしない。

 結果として間違っていることが分かっても、反省も謝罪もしないというのは、人間としてはいかがと思うが。

 ▽「試合が全て」という考え方

 ここで大坂選手の提起した問題に戻りたい。

 判決が全て、弁明しないという姿勢を、アスリートに適用すれば、試合におけるパフォーマンスが全てであり、試合後に言葉や行為によって付加するべきことは何もないということになる。

 選手の立場に身を置いてみる。

 その日の試合は失敗に終わった。試合後、失敗の理由を繰り返し問われた。その問いの中には、思いも寄らない非難や叱責(しっせき)のニュアンスも込められていた。私なら、その場が嫌になるだろう。

2019年7月、ウィンブルドン選手権で初戦敗退し、記者会見する大坂なおみ。この後、記者会見を打ち切った=ウィンブルドン(共同)

 ではその試合に勝利したら、喜んで会見に応じられるだろうか。

 相撲界は最近、多弁な力士が少なくないが、昔は特に自らの取り組みについて語らない人が多かった。勝因を誇らしげに語ることは、敗者をさらに、無用に傷つける。そして、そのような行為は、自らの品位をもおとしめる。そんな美学だったと思う。

 そういう気風が今も強く残っているのは、将棋界や囲碁界であろうか。終局の瞬間を見逃して、その後の場面だけを見ても、どちらが勝ったか分からない。頭をがっくり垂れている方が勝者であることも珍しくない。勝って、はしゃぐ人を見たことがない。

2021年度の初戦を白星で飾った藤井聡太二冠。勝ったように見えない=9日夜、東京都渋谷区の「Abema TV」スタジオ(日本将棋連盟提供)

 いずれにしても、スポーツは試合の場が全てという考え方があってもいい。メディアにとっては、試合以外の場でも、選手やコーチ、家族や友人に取材し、サイドストーリーをつむぐことが常道になっているけれど、必須だろうか。最近、亡くなった俳優田村正和さんが、私生活を全く明かさなかったことも思い起こす。

 「記者会見を含めて選手の仕事だ」と考える人は多いだろう。スポーツは大きなお金の動く仕事となり、スポンサーやファン、その背後にいる多くの市民の好感や支持を抜きにしては考えにくくなった。記者会見は好感や支持を得る絶好のチャンスだ。

 記者会見を否定したり、拒否したりするのは、チャンスを失うことだ。チャンスの前置詞としては「ビジネス」という言葉がふさわしそうだが。

 ▽会見しない自由

 だが「知る権利」はスポーツ選手の記者会見まで強制しない。責任ある立場の政治家や公人は別として、会見をしたくないという個人の自由は尊重されなくてはならない。たとえ、その理由が心の病によるものでなくても。

 全仏の主催者は大坂選手に罰金を課した。さらにテニスの四大大会の主催者は連名で、今後も会見に応じない場合は、出場停止処分とする可能性にまで言及した。

 そこでプレーする希望を持ち、その力も十分ある選手を締め出すというのは、尋常ではない。

 棄権を表明した大坂選手のツイッターには次のような一文がある。

 「テニスの記者はいつも私に優しかった(そして私が傷つけたかもしれない記者のみんなに特に謝りたいです)」

 大坂選手は記者たちを拒否したわけではなかったが、記者会見という場を批判することは、その場にいる記者たちを非難することと、同義ととられかねない。実際、誰のどのような質問が彼女を傷つけたのか、特定したい欲求に駆られた人もいるのではないか。

 だから大坂選手は記者たちに謝罪した。彼女の優しさに、テニス界もメディアも応える番だと思う。

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