エンゼルスの“二刀流”大谷翔平が米球界の話題を独占している。投げれば160キロ超の直球で打者をキリキリ舞いさせ、打てば特大の本塁打。まるで漫画の主人公のようだ。
登板日以外に野手として出場する大谷とは違うが、かつてプロ野球界には「投手は9番目の野手」を地でいく選手が何人もいた。中でもあり得ない“離れ業”を見せてくれた昭和のエース2人を紹介したい。
1973年8月30日、阪神・江夏豊は中日戦(甲子園球場)で延長11回、自ら右翼ラッキーゾーンにサヨナラ本塁打を叩き込み、史上初の延長戦ノーヒットノーランを達成。試合後には「野球は一人でもできる」と言い放ち、物議を醸した。
ただ「俺がマウンドに上がると、決まって延長戦。1点もやれないゲームばかりなので、本当にしんどい」と話すように、江夏の登板試合は決まって接戦になったのも事実。揚げ句に自分のバットで決着をつけたのだから、野手は何をやっていたのかということにもなろう。
巨人・堀内恒夫もすごい。プロ2年目の67年10月10日、後楽園球場で行われた広島とのダブルヘッダー第1試合、投手としては史上唯一となる3打席連続本塁打を放ってノーヒットノーランを達成した。
この快挙を報じた本紙の記事によると、川上哲治監督は「堀内の実力は並の選手と比較になりません。大変な力を持っているんです。それにしてもあの運の強さ…。私はご両親のどちらかが素晴らしい運を持っていて、それが働いているのではないかと思うことがあるんですよ」とスピリチュアルなパワーに言及。また、球界には「長嶋の後釜」という野手転向を勧める声もあったといい、いかに堀内の打撃のインパクトが強かったかがわかる。
もっとも、本人は「何のためにバット持って打席に入ってんだ?」と打撃に真剣に取り組むのは当たり前といった様子。その姿勢はずっと変わらず、巨人が前人未到の9連覇を達成した73年の日本シリーズで、集大成ともいえる姿を見せた。
この年は12勝17敗と精彩を欠き、大事なシーズン終盤に使ってもらえないなど、これまでにない屈辱を味わった。そこで「男の意地を見せてやる」「自分一人でマウンドを守る」と言い聞かせて宿敵・南海との決戦に臨んだという。
初戦を落として迎えた第2戦、2番手で登板すると延長11回、自ら決勝タイムリーを放ってチームを勢いづかせる。第3戦では投げては完投勝利、打っては3回にソロ、6回に2ランと投手としては日本シリーズ史上唯一の1試合複数本塁打をマーク。さらに第5戦は好リリーフで胴上げ投手に。まさしく独り舞台で「堀内のためのシリーズ」ともいわれ、文句なしのMVPに選ばれた。
現役最後の登板となった83年10月22日の大洋戦(後楽園)では、8回から2イニングをしっかり抑えただけでなく、8回裏に打席が回ってくると左翼席へ本塁打を放っている。堀内ほど大舞台で本塁打を披露してきた投手はほかにいない。(敬称略)