時代が求めた「どんなときも。」槇原敬之の才能は優れたメロディメイクにあり! 1991年 6月10日 槇原敬之のシングル「どんなときも。」がリリースされた日

__メロディが9割 Vol.4
どんなときも。 / 槇原敬之__

天才は天才を知る、当時16歳の槇原敬之を、坂本龍一が異例の厚遇

俗に、天才は天才を知るという。

時に1985年11月26日―― この日、放送されたNHK-FM『サウンドストリート』にて、火曜日担当のDJ・教授こと坂本龍一サンが自身の名物企画「デモテープ特集」の中で、ある1本のテープを流した際、こんな感想を残した。

「かなり好きです、僕、こういうの。ほんっとに新しいと思うんです。16になりたてくらいで、きちんとできてますよ…… もう、このまま出せちゃうんじゃないですか、シングルが」

デモテープの送り主は、当時、大阪府立春日丘高校1年に在学中の槇原敬之サン。もちろん、まだ一介の16歳の少年に過ぎない。曲は彼の作詞・作曲のオリジナルの「HALF」。YouTubeで探せば聴けるけど、声こそ10代の少年らしく若いが、耳に馴染みやすいメロディラインと切ない恋心を綴った歌詞は、既に往年の槇原節が完成している。

 HALF HALF HALF 半分大人の僕がいて
 HALF HALF HALF 半分大人の君がいる

実際、教授もかなり同曲がお気に召したらしく、他の応募者と違ってフルコーラスをかける異例の厚遇ぶりを見せた。槇原さんがシングル「どんなときも。」でオリコン1位に輝く、実に5年8ヶ月前の話である。そう、天才は天才を知る――。

そんな次第で、今回は稀代の天才ミュージシャン、槇原敬之サンの話である。奇しくも今日、6月10日は、今から30年前の1991年に、前述の「どんなときも。」がリリースされた日に当たる。

槇原敬之「どんなときも。」映画「就職戦線異状なし」の主題歌に起用

 僕の背中は自分が
 思うより正直かい?
 誰かに聞かなきゃ
 不安になってしまうよ

「どんなときも。」は、槇原サンのサードシングルである。フジテレビ製作の映画『就職戦線異状なし』の主題歌に起用され、映画のスマッシュヒットと共に火が点いて、あれよあれよとオリコン1位となり、ミリオンセラーを記録。当時、ほとんど無名だった槇原サンの名を一躍メジャーに押し上げた。

同曲は、コンペ方式で採用されたという。一般に、映画の主題歌というのは、映画の制作から独立して音楽プロデューサーが動いて(映画の内容と必ずしもリンクしないのはそのため)、安心安全の大物に依頼するか、次に来そうな新人を起用するかのどちらかのパターンが多い。槇原サンの場合、後者のケースで、更にコンペが行われたのだろう。

実際、僕も参加したホイチョイ映画『バブルへGO!』(監督:馬場康夫)も、音楽プロデューサーの「今、加藤ミリヤが来てるよ」みたいな話から、主題歌が決まったと記憶している。ちなみに、その前のホイチョイ映画『メッセンジャー』(監督:馬場康夫)では、主題歌候補の一人に売れる直前の宇多田ヒカルさんがいて、取り逃がすという失態を犯している(笑)。

売れた理由は、等身大の瑞々しい詞と類稀なるメロディメイク

 あの泥だらけのスニーカーじゃ
 追い越せないのは
 電車でも時間でもなく
 僕かもしれないけど

とにかく―― 槇原サンは見事、「どんなときも。」が主題歌に選ばれ、ミリオンセラーの大ヒットとなった。それにしても、ほとんど無名の新人ミュージシャンの曲が、なぜそこまで売れたのか?

1つは、その等身大の瑞々しい詞だろう。誰かが言ってたけど、槇原サンほど “僕” が似合うミュージシャンもいないと。同曲はいわゆる夢追いソングだけど、使われているフレーズは「古ぼけた教室」とか「あの泥だらけのスニーカー」とか、やたら視覚的で、誰もが共感しやすいワード。意外にも、彼の曲作りは “詞先” らしいが、根本的には詩人なんだと思う。

そして、もう1つは―― その類稀なるメロディメイクである。圧倒的にメロディがいい。僕はかねがね「名曲はメロディが9割」理論を唱えているが、同曲が売れたのも、シンプルにメロディだと思う。詞の評価は後付けである。

これは音楽評論家に限らず、一般のユーザーもそうだけど、曲に対する評論や感想で多いのは、圧倒的に “詞” か “サウンド” である。“メロディ” が言葉として語られる機会は少ない。槇原サンの場合、元々のワードセンスがいいので、詞が評価されがちだ。でも―― 僕は敢えて唱えたい。「彼の才能は優れたメロディメイクにある」と。なぜなら、槇原サンがデビューできたのも、時代がメロディを求めていたからである。

槇原敬之デビュー曲「NG」に見る、“メロディの時代” 到来の予感

槇原敬之サンのデビューは、「どんなときも。」の前年、1990年の10月である。デビュー曲の「NG」は、同年3月に行われた「AXIA MUSIC AUDITION '89」でグランプリを獲得した楽曲。なんと、サポートギタリストは従兄の寺西一雄サン(現・ROLLY)だったという。

同オーディションで特筆すべきは、プロの審査員によるグランプリ発表と同時に、デモテープを聴いた一般の音楽ファンからの投票で選ばれる「一万人審査員賞」も発表したこと。そして、槇原サンの「NGは見事―― ダブル受賞したのである。

これは僕の勝手な推察だけど、一万人がいいと思う楽曲は、間違いなくメロディが共感されたから。そう、“メロディの時代” が、すぐそこまで来ていたのだ。

90年代に再び脚光を浴びた、万人に受け入れられるメロディワーク

思えば、80年代後半、音楽はサウンド志向を強め、いわゆる玄人受けする楽曲が増えていった。ディスコはユーロビートからブラックミュージックへ移行し、アイドルは冬の時代を迎え、『ザ・ベストテン』や『夜のヒットスタジオ』は視聴率を落とし、やがて姿を消した。

音楽業界に漂う閉塞感―― だが、そんな時代の空気感は90年夏に一変する。作詞・さくらももこ、作曲・織田哲郎によるB.B.クイーンズの「おどるポンポコリン」の大ヒットである。同曲により、再び万人に受け入れられるメロディワークが脚光を浴びたのだ。

その流れは、同年暮れのKANの「愛は勝つ」、そして翌1991年初頭の小田和正「ラブストーリーは突然に」のロングヒットへと連鎖的に繋がっていく。

メロディの時代、それはベテランも新人も等しく売れるチャンス?

メロディの時代がいいのは、誰もがホームランを打てるチャンスがあるからである。ベテランも新人も等しく売れるチャンスがある。業界のコネがなくとも、優れたメロディひとつでユーザーの支持を集められたら、ミリオンが狙えた。かつて70年代から80年代前半にかけて、ポプコンが毎年のように新人ミュージシャンを輩出できたのも、メロディの時代だったからである。

 どんなときも どんなときも
 僕が僕らしくあるために
 「好きなモノは好き!」と
 言えるきもち 抱きしめてたい

1991年、日本の音楽界は再び、メロディの時代を迎えた。映画『就職戦線異状なし』は6月の公開に向け、主題歌選びに着手した。槇原敬之サンはネクストバッターズサークルから立ち上がり、静かに歩き出した。

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