【加藤伸一連載コラム】新人で契約保留 待遇はとにかく悲惨だった

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(20)】プロ1年目の1984年は、4月半ばに一軍昇格を果たして5月5日に初勝利。その後もリリーフを基本としながら、ローテーションの谷間で先発するなど33試合に登板しました。8月末からは抑えにも抜てきされ、計75イニングで5勝4敗4セーブ、防御率2・76。高卒新人としては上出来だったと思います。

そうなれば楽しみなのはバラ色のオフ。初体験となる契約更改で、どのぐらいの金額が提示されるのか胸を躍らせていました。先輩たちには「すぐに判を押すんじゃないぞ」とアドバイスされ、球団の懐事情も何となく理解しているつもりでしたが、それなりの昇給はあるものだと思っていました。

しかし、そんな夢はもろくも崩れます。契約更改交渉での最初の提示額は100万円増の400万円。いくら今とは貨幣価値が違う昭和59年の話とはいえ、がくぜんとしました。希望額は倍増の600万円だっただけになおさら。新人ながら、しっかりと保留させていただきました。

球団側からは「保留しても上がらんぞ」とクギを刺されていましたが、実際には2度目の交渉でスズメの涙ほどの上乗せがありました。それでも460万円。当時の一軍最低年俸保証より20万円安い金額です。まあ、主砲の門田博光さんですら年俸は5000万円弱。チーム2位の12勝を挙げた山内和宏さんですら前年の18勝から成績が悪くなったとダウン提示をされたぐらいで、とにかく80年代の南海は金銭面では悲惨な状況でした。

待遇の面もそう。合宿所の昼食はインスタントラーメンで、野菜などの具は入っていたものの、生卵は別売りで50円。ジュース類は専用のノートに「正」の字を書き、飲んだ分だけ給料から天引きされます。一軍では1食500円分のチケットをもらえるのですが、それで食べられるのはうどん、そばぐらい。700円のトンカツ定食に150円のジュースを付けたら、差額の350円が給料から引かれます。

商売道具でも厳しい制約がありました。ユニホームはホームとビジターが各2着で再支給なし。スパイクも1足か2足しかもらえないため、ケンなどのメンテナンスも日課となっていました。ホームゲームではソックスやスライディングパンツなどのインナー類のクリーニング代は別会計で、ユニホームと一緒に出していたら月額2万円以上の請求が来ることも…。そのため多くの選手は自宅に持ち帰って洗濯するような状況でした。

二軍では荷物車もないため、合宿所から球場まで先輩の荷物を運ぶのは1年生の仕事。西宮や甲子園、日生球場でのデーゲームが最悪でバットにボール、ヘルメット、プロテクターを担いで通勤ラッシュの御堂筋線や大阪環状線に乗るのは苦痛でした。一軍でも遠征時に使用するスーツケースのトラックへの積み下ろしは若手の役割で、先発当日でも関係なし。選手が商売道具のヒジや肩、腰を痛めたらどうしよう…という認識は球団側にもなかったのでしょう。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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