「今は陽性じゃないのに…」 軽症から突然悪化 眠れない夜に絶望感

宿泊療養施設で体温などを記録する健康観察票。3日目には症状悪化で病院に搬送されたため、ほとんど記入することはなかった=4月、県内(本人提供)

 それは「いつものこと」だと思っていた。4月上旬の朝。長崎県内の運送会社に出勤した宏樹(仮名、30代)は検温に臨んだ。37.5度。普段から平熱は高めなので、報告だけ済ませて仕事を始めた。その後も何度か、携帯する体温計で測るうちに36度台に落ち着いた。
 2日後の夕方。出発前に検温すると38度近い。あいにく代役を頼める人がいない。解熱剤を飲み、大型トラックに乗り込んだ。目的地で車中泊した翌朝、異常な暑さを感じて目を覚ますと、熱は40度近くまで跳ね上がっていた。倦怠(けんたい)感に襲われながら荷物の積み込み作業を終え、昼ごろ帰社。「季節外れの風邪だろう」と思いつつ、万が一のため、紹介された病院に車を走らせPCR検査を受けた。
 1時間後、陽性が判明した。「ああ、ついにか…」。仕事で県外との行き来は多いが、密になる場所に近づくことはなかった。誰かといるときは常にマスクをし、手で触れる場所は小まめに除菌シートで拭くなど自分なりに対策を徹底してきたつもりだった。
 「陽性だった。注意して」。ここ数日内に接触した人たちにすぐ知らせた。保健所から電話があり、療養先を自宅と宿泊施設のどちらにするか尋ねられた。自分は軽症らしいが、家族に医療従事者がいる。迷わず宿泊療養施設を選んだ。
 帰宅しても中に入らず、親に頼んで玄関先に置いてもらった着替え入りバッグをつかみ、保健所経由で施設に向かった。送迎に用意されたミニバンの座席はビニールで覆われ、運転席とは透明な板で仕切られていた。同行職員はフェースシールドや手袋、ヘアキャップで防備。車内で会話は一切なかった。
 発症から2週間ほどの隔離が必要だと職員から説明された。「退屈だけど、せっかくだから身体を休めよう」。そんな軽い気持ちで個室に入った。だが翌日、ひどい風邪をひいたときのような咳が出始め、次の日、病院へ搬送。肺炎を起こし、血中酸素飽和度は「呼吸不全」の数値まで低下していた。中等症の状態だった。

 咳が止まらず眠れるのは毎日1時間ほど。咳込んで嘔吐(おうと)し、口から食事を取れなくなり点滴に頼った。解熱剤を飲んでも38度台の熱が続いた。体がひどく重たく感じられ、寝たきりとなり、自分の足でトイレにも行けなくなった。

咳が出て、眠れない日々が続いた入院生活。血中酸素飽和度を測るパルスオキシメーターは「呼吸不全」の数値を示していた=4月、県内(本人提供)

 酸素吸入をしていても苦しい。息を何度吸っても肺に空気が入ってくる感覚がない。医師からは、従来より感染力の高い英国由来の変異株だと聞いた。「本当に治るのだろうか」。意識がもうろうとする中、先が見えない絶望感に押しつぶされそうになった。
 1週間たってようやく容体が安定し始め、4月下旬に12日間の入院生活を終えた。「重症化する可能性がある。最悪の場合の覚悟をしてほしい」。親が医師にこう告げられていたのを、宏樹が知ったのは退院後だった。
 体重は8キロ減った。今の体力を確かめようと、小学校時代の通学路を歩いてみた。少し動けば息切れし、その場でへたり込むの繰り返し。普段なら往復40分の距離を3時間かけても歩ききれず、途中で親の車に拾われた。「人生この先、ずっとこうなのか」。1カ月ほどで元に戻るはずと医師から説明を受けていたが、不安は高まった。
 陽性判明から1カ月後、職場に復帰した。負担の少ない業務から始め、同僚は「流行病みたいなものだ」と笑って迎えてくれた。だが社会のまなざしが温かいとは限らない。献血会場でスタッフに感染歴を説明すると、順番待ちの女性2人から白い目を向けられた。行きつけの理容室では「客商売をしている。もう少し待ってから来て」と言われた。「今は陽性じゃないのに…」。もやもやした思いが広がった。
 調子は今だ完全に戻っていない。仕事で体を動かすと、たびたび呼吸がしづらい。疲れやすく、以前よりも作業に時間がかかる。もう二度と同じ経験はしたくないから、仕事以外でほとんど外出しなくなった。
 コロナ禍で多くの人がさまざまな我慢を強いられ、中には仕事を失う人もいる。みんな心の余裕を保つのが難しい-。宏樹はそう理解している。ただ、感染するかしないかは「時の運」とも思う。だから経験上、伝えたいことがある。「自分が感染したときにどうしてほしいか。差別ではなく、そんな考えをしてくれたら」


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