日米安全保障条約の改定に反対するいわゆる「60年安保闘争」に身を投じ、61年前の6月15日、警官隊と衝突して死んだ樺美智子(かんば・みちこ)には、没後にまとめられた遺稿集「人しれず微笑まん」がある。
遺稿集を通じて後に彼女を知った人たちも含め、関係者の間でしばしば話題となるのは、22歳だった彼女に「想(おも)う人」はいたのか、いたとすれば誰だったのかということだ。(女性史研究者=江刺昭子)
拙著『聖少女伝説』(文庫化されて『樺美智子、安保闘争に斃れた東大生』と改題)の取材を続けるうちに、それは兵庫県立神戸高校の同級生の1人に絞られていった。彼に「会って話が聞きたい」と何度かアプローチしたが、なかなかかなわず、1年半前にようやく会うことができた。その1カ月後、彼もこの世を去った。
樺と樺の死がのこしたものを理解する一助として、経緯をここに記したい。
60年安保闘争の学生運動を主導したのは、58年に共産党から分かれて前衛党を名乗ったブント(共産主義者同盟)だった。そのブントを指導し、盟主ともいえる存在だった島成郎(しま・しげお)を、樺は尊敬していた。
島の著書「ブント私史」は、樺の「想う人」について、こう明かしている。
―或る日、余りお喋りもしなかったその彼女が事務所(ブント書記局―筆者注)から出ようとした私を追ってきて突然、「島さんは大人だから相談したいのですが、私、想いを寄せる人がいるのです…」と話しかけてきた(中略)「Sさんです…」といって顔を赤らめたまま逃げるように事務所に入っていってしまった―
Sとは誰か。神戸高校の同級生だった佐野茂樹だというのが、関係者のほぼ一致した見方だ。樺は父の転勤で兵庫県立神戸高校に進み、佐野とともに自治会役員を務めてリーダーシップを発揮した。そして、2人とも早くから社会科学関係の書物に親しみ、思想的にも近かった。彼女の短い人生をたどってみて、この頃が最も輝いていたと、わたしは思う。
佐野は1956年に京大へ、樺は東京に戻って浪人し、翌年東大に進んだ。
佐野は大学ですぐに自治会活動で頭角を現す。全学連中央の活動に参加するため、しばしば上京し、58年には全学連副委員長として東京に常駐している。
樺も東大で水爆実験や米軍基地に反対する運動に力を入れた。2人とも共産党を経てブントに加盟する。この頃2人が付き合っていたと、佐野に近い人が証言している。
59年、佐野は全学連中央の役員をはずれ、関西で労働者対策に専念する。樺は文学部史学科に進学し、文学部学友会副委員長になる。
樺は神戸高校時代の親友、松田恵子に宛てた手紙で「『階級闘争に没頭している』人にはめったに会えない」とこぼしている(『友へ 樺美智子の手紙』)。
激しさを増す安保闘争の中で、樺は実力行動もいとわない活動家になっていく。60年1月には条約調印のため渡米する岸首相一行を阻止しようと羽田空港のロビーを占拠して逮捕、勾留された。17日後に釈放された後は、勉強に専念したいと思いながら活動から離れられず、6月15日、国会構内に突っ込んで帰らぬ人となった。
新安保条約は自然成立し、ブントは内部分裂して崩壊したが、佐野は関西グループのリーダーとして学生運動に影響を与え続けた。60年代後半、活動家が世代交代する中で第2次ブントの議長になり、東京で学生をオルグしたり、69年1月の東大安田講堂攻防戦にも姿を見せたりしている。
しかし、第2次ブントも分裂して京大の後輩たちが赤軍派を結成するに至って、組織から退いた。赤軍派は武装闘争をエスカレートさせ、連合赤軍へと変貌を遂げて、この間にハイジャック事件やあさま山荘事件、山岳ベースリンチ死事件を起こした。それは今に続く学生運動への拒否感を醸成し、運動の衰退を招いた。
90年代末、佐野はエコロジストとして、人びとの前に再び姿を現す。NGO団体を立ち上げ、中国やネパールで緑化や井戸掘り事業に取り組み、知人らに支援をあおぎながら2010年頃まで事業を続けた。
わたしは佐野に取材を申し込んだが、面会を承諾し場所も決めながら、直前に断られることが3度続いた。思いがけず願いがかなったのは、2019年12月。大阪府寝屋川市のお宅におじゃました。精悍(せいかん)な風貌は若いときの写真と変わらないが、記憶の焦点が定まらないのか、意識して避けたのか、樺については「あの人は堅い人、勉強ばかりしている人、超真面目な人だった」と繰り返すばかりだった。
それから約1カ月後の20年1月21日、84歳で亡くなられた。死期を悟ったからこそ、面会を受けてくれたのかもしれない。
同年3月に京都で、10月に東京で「偲ぶ会」があり、影響を受け、迷惑もこうむった元活動家らが集まって、故人を語った。いわく「京大の学生運動のスター」、いわく「沈着さと端正さで運動の品格を作った」、「行動するロマンチスト」、「ストイックな生き方」…。褒め言葉が続いた。
佐野は樺については一貫して沈黙した。最後にわたしに語ってくれたのも「堅い」「超真面目」といった当たり障りのない、むしろ否定的な言葉だった。黙して語らなかった余白に、多くの思いと交流があったのだと思いたい。
樺が生きていたら、どんな生き方を選んだだろう。佐野の生き方をどう評価しただろう。行動を共にしただろうか。
いや、彼女が死ななかったら、日本社会も日本の学生運動も、今とは違ったものになったかもしれない。
そう分かっていても、彼女に今の日本をどう思うか、あなたならどうしますかと聞きたくなる。