ストリップと「わいせつ」、歴史から考える 上野の劇場摘発から見えるもの

摘発後、行政処分を受けたストリップ劇場「シアター上野」の看板。「営業停止」と張り紙されている=2021年6月13日、東京・上野(撮影、共同通信=金子卓渡)

 4月、東京・上野のストリップ劇場が突然、警察に摘発された。近年はその独自の性表現が見直され、ストリップ文化の明かりを守ろうと、クラウドファンディングを呼びかける動きもある。報道を受け、インターネット上では「#ストリップは犯罪じゃない」のハッシュタグが広まり、「そこにある人の生きがいや輝ける瞬間を排斥するのか」「誰も被害者がいないのに」との書き込みが相次いだ。ストリップと犯罪の関係はどう考えたらよいのだろうか。著書「エロスと『わいせつ』のあいだ」(ジャーナリスト・臺宏士氏との共著)があり、性表現の規制に詳しい甲南大の園田寿名誉教授に歴史から解説してもらった。(共同通信=武田惇志、武隈周防)

 ▽戦後に懲役刑を追加

 園田氏によると日本文化は元来、裸体について寛容な傾向があった。古事記には、女神のアメノウズメが胸をあらわにして踊り、神々を笑わせたという有名な場面がある。明治維新後、西洋列強を手本に近代化を推し進めた政府はこうした風俗を野蛮な風習と見て一掃するべく、当時の日本人になじみのなかった「わいせつ(猥褻)」概念を導入。刑法に公然わいせつ罪やわいせつ物頒布罪を定めて、取り締まった。ただし、戦前までは、検閲制度によってすでに言論や表現の自由が強力に抑制されていたこともあり、わいせつ関連の罪は罰金刑にとどまっていた。

リモート取材に応じる園田寿・甲南大名誉教授

 しかし戦後に民主化されると、性表現への罰則は強化される。焼け跡には闇市が生まれて売春はまん延、「カストリ雑誌」と呼ばれた粗悪な娯楽雑誌が全国で流通していた。社会秩序の乱れを恐れる政府は1947年、公然わいせつ罪(刑法174条)とわいせつ物頒布罪(刑法175条)に懲役刑を追加した。
 戦前、「わいせつ」が成立する条件は、判例から(1)「性欲を刺激興奮し又は之を満足せしむべきもの」と(2)「人をして羞恥嫌悪の観念を生ぜしむるもの」とされていた。戦後の51年に、カストリ雑誌を巡る裁判で、最高裁が(3)「善良な性的道義観念に反するもの」を新たな条件として追加認定した。この3条件が今日まで続く「わいせつ」の概念となった。
 「この“善良な道義観念”こそが、『チャタレー事件』や『悪徳の栄え事件』など、性的な文学表現を巡って翻訳者らが罪に問われた一連の有名裁判で、有罪判決を出す根拠となってきました」と園田氏は指摘する。

 ▽かくあるべき、の性秩序

 「性的好奇心をそそるため衣服を脱いだ人の姿態を見せる興行」としてストリップ劇場は、風営法の届け出で営業が認められているが、過去には何度も公然わいせつ罪による摘発対象になってきた。一昔前はダンスショーだけでなく、男性客に隠然と性的サービスを行うような劇場も少なからずあり、手入れに対する社会の批判もなかったといえるだろう。

 「公然」とは、不特定または多数の人が視認できる状況を指し、公然わいせつ罪は、このような状況下でわいせつ行為を行った罪だ。ストリップ摘発を巡るこれまでの判例も、わいせつ3条件が適用され、有罪判決が出されてきた。

 園田氏は言う。「公然わいせつ罪の保護法益(法律が規制で実現しようとする利益)は、極論すれば、国民の性風俗・性道徳はかくあるべきと裁判官が考える『性秩序』です。わいせつなものを見て不快に思った人が、法律上の被害者になるわけではなく、抽象的な性秩序が侵害されることが問題とされます」

 例えば、全裸で出歩くといった公然わいせつの代表的な行為も、意外かもしれないが、個別の被害者は想定されていない。

「悪徳の栄え」事件の一審判決後、記者会見する(左から)文芸評論家の中村光夫氏、翻訳者の渋沢龍彦氏、出版者の石井恭二氏=1962(昭和37)年10月16日

 ▽恣意的権力行使の恐れ

 しかし、園田氏は被害者がいない犯罪だからこそ、恣意しい(しい)的な権力行使につながる恐れがあることを忘れてはならないと指摘する。

 「今回の事件について言うと、ストリップを見たい観客が自らお金を払って見に行き、踊り子も劇場も満足している状況でした。他害性はありません。それでも『いかがわしいことが行われている』という嫌悪感があれば逮捕できます。東京五輪を前にした浄化作戦との報道もありましたが、捜査機関のさじ加減一つで摘発ができてしまうのです」

 今回摘発された劇場では「オープンショー」と銘打ち、踊り子の女性が開脚ポーズを取っていた。公演中に激しく踊って局部が見えてしまったハプニングでなく、わざと露出させたとして、当局が善良な性秩序の観点から悪質と捉えたということであり、それを「恣意的」などと言うべきではないかもしれない。しかし、法の立て付けとして懸念が残ると指摘すること自体は妥当だろう。

「シアター上野」で舞う踊り子の指先=2021年5月9日(撮影・武隈周防)

 ▽時代とともに

 園田氏は今後、公然わいせつ罪の保護法益について、抽象的な社会的法益から人権に根ざした個人的法益に切り替えることによって、「見たくない人に無理やり見せることで生じる罪」といった定義に変えていくような法的検討を始めるべきだと唱えている。

 女性客が増え、踊り子のなりわいを「自己の解放」と肯定的に捉える女性も出てきたストリップ業界は、演出も客層も社会的な認知も、様変わりした感がある。

 あの場で展開されたものはわいせつだったのか―。今回の摘発を「店側が露骨なことをやりすぎた」と、片付けてしまうことは簡単だが、わいせつの定義や法の運用は、時代や社会のあり様によって移り変わってゆくものかもしれない。

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