元祖「#わきまえない女」、その意外な素顔とは 平塚らいてう没後半世紀、遺族が日記公開

平塚らいてう=1970年6月

  女性だけの手による日本初の文芸誌の創刊、大正時代に事実婚、与謝野晶子と母子の権利について論争を繰り広げ、戦後は米国政府幹部に直談判…。すべて、女性解放運動家の平塚らいてう(1886~1971年)が実際に行ったことだ。中でも女性蔑視とは生涯闘い続けた元祖「#わきまえない女」は、5月で没後半世紀を迎えた。偏見やバッシングをものともせず、信念を貫く姿は、現代の私たちにとっても示唆に富む。最近公開された未公開日記とともに、歩みをたどった。遺族が語る彼女の素顔は、一般に思い描くイメージとは異なっていた。(共同通信=山口恵)

 ▽授業ボイコット

 1886年、教育熱心な両親の元、東京で生まれた。東京女子高等師範学校付属高等女学校時代は、良妻賢母主義の教育に不満を持ち、級友と「海賊組」を結成。修身(道徳)の授業をボイコットしたこともあった。その後、17歳で日本女子大学校に進学。同窓生には、後に夫、高村光太郎の詩集「智恵子抄」で知られる長沼(高村)智恵子らがいた。

 英語や漢文、文学に関心を持つ勉強熱心な若者だったが、22歳の時に心中未遂騒動「塩原事件」を起こし、一躍有名になる。参加していた文学研究会の講師で、夏目漱石の弟子だった森田草平と家出し、栃木・那須の雪山にいたところを警察に保護されたのだ。スキャンダルとして大きく報じられ、バッシングにさらされた。

平塚らいてう=1968年12月、東京都世田谷区

 1911年、女性だけの手による月刊の文芸誌「青鞜」を創刊し、家父長制など女性を抑圧する制度に抵抗した。創刊の辞「元始、女性は太陽であった」には同世代の多くの女性から共感の声が寄せられた。ペンネーム「らいてう」を初めて使ったのもこの時。塩原事件の後、一時、傷心の時を過ごした長野県で親しみ、心引かれた鳥の「雷鳥」から名付けた。

 パートナーは5歳年下の画家、奥村博史で、14年に「共同生活」を公表した。古い封建的な結婚制度への反発から、入籍はせず、二児をもうけた。奥村は病弱で絵はあまり売れず、家計は、らいてうの原稿収入頼み。経済的な苦労は多かった。この頃、出産、育児への国の支援の在り方について、与謝野晶子らと激しい「母性保護論争」を繰り広げた。

 「経済力を得るまでは妊娠、出産を避けるべきで、母子への特別な支援は不要」とする与謝野に対し、らいてうは「安心して産み育てるため、国に支援を求めるのは当然」と反論した。論争は「どちらの意見も大切で、対立する必要は無い」と一段落したが、らいてうにとっては、女性をめぐる社会問題に改めて向き合うきっかけになった。

 20年には市川房枝らと女性の地位向上を目指す「新婦人協会」を設立し、婦人参政権運動を展開する。戦後は平和運動にも力を注いだ。国際民主婦人連盟の副会長も引き受け、国内外に原水爆禁止や軍縮を訴えた。71年5月24日、85歳で死去した。

 ▽孫が見たらいてう

 一方、肉親から見たその姿は、世間一般の「らいてう」像とはだいぶ異なる。孫の奥村直史さん(76)=東京都=は13歳まで同居し、らいてうが亡くなるまで交流があった。「身長は約145センチで同世代と比べても小柄。声は小さく内向的で言葉少ない人だった」と振り返る。奥村さんは、孫の視点から長年らいてうを研究し、5月には「平塚らいてう その思想と孫から見た素顔」(平凡社)を出版した。

平塚らいてうの孫の奥村直史さん=4月、東京都文京区

 忘れられないのは、戦後、奥村さんが小学生だったころの出来事だ。板と輪ゴムで手作りしたゴム鉄砲を家の応接間に置きっ放しにしていたところ、「こんなもの置いちゃだめ。私が嫌いなものなんだから」とひどいけんまくで怒られた。「感情を強く表に出す人ではなかったから、すごく驚いた。当時は武器や軍備について、相当、過敏になっていた。孫がそうしたものに興味を持つことが納得いかなかったのではないか」

 「『女性も主体的な存在』と主張し続け、押しつけられるのを何より嫌がった。もし、らいてうが今の時代に生きていたら、東京五輪・パラリンピック組織委員会会長だった森喜朗氏の発言についても、『明治、大正の時代から何も変わってない。困ったわね』とあきれ返ったと思う」

5月上旬に出版された、キンドル版「平塚らいてう その思想と孫から見た素顔」の表紙

 ▽目線は世界に

 戦後、平和問題に尽力したらいてう。先日、その思いがにじむ自筆の日記が初公開された。プライベートな記載も含まれている、との理由で長年、遺族が保管したままになっていたが、孫の奥村さんの代になり、「らいてうの生涯をたどる上で貴重な資料」との思いから、公開を決めた。

新たに公開された日記の一部

 日記は48~50年の日付で小ぶりのノートに手書きで書かれていた。日々の行動記録や暮らしの様子を淡々と記す中、50年4月13日には「平和問題、講和問題について、婦人の総意を代表する声明を国内及び国外に、今こそしなければならない瞬間だとこの数日しきりに思ひ悩む」との記載があった。

 当時、日本は連合国軍占領下。講和条約締結に向けて再軍備も議論されていたため、戦争反対の声を上げる必要性を感じていたとみられる。

 居ても立ってもいられなくなったらいてうは、知人の女性らに呼びかけ、同年6月26日、来日中の米国国務省顧問ダレスに「夫や息子を戦場に送り出すことを拒否する」などとする声明「非武装国日本女性の講和問題についての希望要項」を連名で提出。当時、公職追放中だった市川房枝も全面的に協力した。

日記について説明する平塚らいてうの会の米田佐代子会長=4月、東京都文京区

 日記を解読した女性史研究者でNPO法人「平塚らいてうの会」会長の米田佐代子さんは、「らいてうの平和活動については『既存の政治勢力に同調した』との見方もあるが、政治的な対立に巻き込まれることなく、自ら考え、中立な立場で訴えようとしたことが日記から裏付けられた」と意義を強調する。

 声明公表日には「日本女性の意思表示を何としてもすべきだと思ひ、政治色なき何名かの婦人の賛助を得て」との記載もあった。

平塚らいてうの記念館「らいてうの家」=長野県上田市

 日記の一部の複製は、長野県上田市にある資料館「らいてうの家」で今年10月下旬まで公開中だ。孫の奥村さんは「家に閉じこもりながらも、目線は世界に開いていた。日記を通じて、らいてうの生き方や平和への思いに関心を寄せてもらえたら」と願っている。

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