【昭和ロックを語る時が来た!】エディ藩が語るカップス解散後 ショーケンから頼まれた松田優作への伝言

エディは松田優作さんとツアーを回った

「レッド・ウォーリアーズ」のボーカル、ダイアモンド☆ユカイ(59)が、ゲストを招いて昭和の日本に巻き起こったロックムーブメントをひもとく。伝説のバンド「ザ・ゴールデン・カップス」のギタリストとして活躍したエディ藩(74)編の最終回。あの昭和の“迷曲”のギターを弾いていたのはエディ!? さらに松田優作さんとの秘話も…。

ユカイ カップス解散(1972年)後、エディさんはどういう活動をしてたんですか?

エディ しばらくスタジオミュージシャンをやってたよ。よしだたくろうのバックとか、フォーライフ・レコードの仕事もよくやってた。あのころはスタジオミュージシャンのギャラがやたらと良くてね。

ユカイ 70年によしだたくろうさん、71年に井上陽水さんが本名で再デビューし、フォークが盛り上がっていた時期ですね。良くてって、どれぐらいだったんですか?

エディ チョコチョコと弾いて1日何万円。月に100万円とかなってた。いい時代だったね。

ユカイ どんな曲を弾きました?

エディ いっぱいやったから、あまり覚えてないんだよな。「河内のオッサンの唄」(ミス花子、76年)とか。

――カラオケで歌いまくってました! あの印象的なギター、エディさんだったんですか!

ユカイ 当時の歌謡曲のバックは、成毛滋さん(2007年没)かチャーさんが多かったそうですが、エディさんも多かったんですね。

エディ そういえば、柳ジョージが若いころ、成毛のスタジオでレコーディングしたことあったな。成毛はブリヂストン創業者の孫でね。レコード会社顔負けのすごいスタジオを持ってた。「横浜ホンキートンク・ブルース」(82年)も最初にそこで吹き込んだよ。

ユカイ 俺もカバーさせてもらったんですが、「横浜ホンキー――」は数々の俳優、ミュージシャンに歌い継がれている名曲です。俺が初めて聴いたのは原田芳雄さん(11年没、俳優)版でした。

エディ あの人が一番うまかったね。最初に歌ったのは作詞した俳優の藤竜也さん。(デイヴ)平尾がテレビで芝居やるようになって、久世光彦さん(06年没、演出家・作家)と飲むようになってさ。久世さんを通して藤さんと知り合った。店でバンドで集まる時、藤さんも呼んでね。未完成のブルース曲を弾いたら「さっきの曲、なんていうの?」「作ってる途中なんです」「俺が詞をつけるから、歌わせてくれない?」って。

ユカイ そういう経緯で藤さんが作詞を。原田さんに憧れていた松田優作さん(89年没)も歌ってます。優作さんのもカッコいいですね。

エディ 優作はショーケンにも憧れて、ちょっとマネしててさ。ショーケンに会った時、「優作に言っといてよ、俺のマネをあんまりしないようにって」って伝言頼まれたことがあったよ。「自分で言えばいいじゃねえか」って言ったら「いや、ちょっと」って(笑い)。

ユカイ 貴重な話! エディさんは優作さんのバンドもやってましたからね。

エディ 2年間(80~81年)一緒にツアー回った。あの人、すごいピュアでね。ツアーの3か月前から毎日練習してたんだよ。毎日、納得するまで。バンドも付き合わされてね。

ユカイ どういう人でしたか?

エディ 一生懸命なんだけど、コンプレックスの塊みたいなところがあって、影もあった。親分肌でね。バンドメンバーがタクシーの運転手とトラブルになった時、その運転手をぶん殴っちゃって、大変だった。

ユカイ 仲間意識が強かったんですね。

エディ サウナが好きで、お付きの人を引き連れて一緒に入るんだけど、優作は1時間ぐらい平気で入ってるんだよ。酒を抜くとか言って。優作が出ないと、お付きは出れないじゃない。誰だったか倒れちゃった(笑い)。みんな今は売れてる役者さんだよ。

☆エディ・バン 1947年6月22日生まれ。神奈川県横浜市出身。デイヴ平尾らとザ・ゴールデン・カップスを結成し67年に「いとしのジザベル」でデビュー。グループ名は出演していたライブハウス・ゴールデンカップから。脱退、復帰を経て同グループは72年1月に解散。後に再結成。作曲した「横浜ホンキートンク・ブルース」は数々の歌手、俳優に歌われている。7月24日に横浜馬車道パラダイスカフェでライブを行う。

☆ダイアモンド・ユカイ 1962年3月12日生まれ。東京都出身。86年にレッド・ウォーリアーズのボーカルとしてデビュー。89年に解散後、数度再結成。

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