【加藤伸一連載コラム】家族のサポートに加え古巣ダイエーを「見返したい」という思いも原動力に

家族も頻繁に広島まで応援に駆けつけてくれた

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(35)】ダイエーを戦力外となり、入団テストを経て広島でプレーすることになった1996年は、21年間に及んだ現役生活の中で最も野球漬けになった1年でした。初めての単身赴任生活には寂しさや不自由な点もありましたが、まず優先すべきは仕事で結果を出すこと。そのためには少々の無理もしました。

開幕直前の左太もも裏肉離れを首脳陣やトレーナーにナイショにしたのもそう。骨折を隠したこともありました。2480日ぶりに完封勝利を挙げた5月14日のヤクルト戦でのことです。勝利まであとアウト3つと迫った9回、先頭の古田敦也の放った打球が左手首を襲ったのです。試合中はアドレナリンも出ているので何とか乗り切れましたが、痛みが引かず、こっそり病院で診察を受けたら骨折していました。

その事実を妻以外に明かさなかったのは、骨が折れていると分かれば出場選手登録を抹消されるからです。せっかく開幕から先発ローテで使ってもらっているのに、自らチャンスを手放すという選択肢など当時の僕にはありませんでした。

利き手ではなかったものの、投球時に手首を返したり、捕手からボールを受けるたびに激痛が走ります。打席でバットを振る際もしかり。2か月ほど痛みに耐える日々が続きました。シーズン終了後に「実は骨折していました」とレントゲン写真を添えて報告したらトレーナーも驚いていましたが、とにかく必死だったのです。

古巣ダイエーを「見返したい」との思いも原動力になりました。開幕前にナゴヤ球場で行われたセ・リーグトーナメントでは、トレードでヤクルトに移籍した佐藤真一や田畑一也、西武を経て中日入りした村田勝喜ら元鷹戦士たちと再会し「活躍してダイエーを後悔させてやろう」と誓い合ったり…。

そんな姿勢がファンやメディアの共感を呼んだのか、スポーツ紙に「リストラの星」や「リストラ男の逆襲」といった見出しが躍ったのもこのころです。会社員だった父は「『リストラ男』っていうのはいかがなものか」と不満そうでしたが、何にせよ注目してもらえるのはプロ野球選手としてありがたいことです。

この広島移籍1年目は全て先発で25試合に登板し、12勝したダイエー初年度の89年以来7年ぶりに規定投球回に到達。9勝7敗、防御率3・78でカムバック賞もいただきました。最大11・5ゲーム差をつけた長嶋巨人に「メークドラマ」を許してリーグ優勝できなかったのは心残りですが、僕の長い野球人生の中でも忘れられない1年です。

もちろん、自分の力だけで復活できたわけではありません。福岡で幼子2人を育てながら留守を守ってくれた妻、何かとサポートしてくれたチームスタッフにチームメート。なかでも戦力外となった僕に救いの手を差し伸べ、いつでも優しく接してくださったのが三村敏之監督でした。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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