【加藤伸一連載コラム】500万円特別ボーナス見込んでソアラ購入

プロ2年目は順調に白星を積み重ねた

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(21)】プロ2年目の1985年は飛躍の年になりました。シーズン34試合の登板で9完投、投球回189回1/3は、いずれも自己最高。先発枠の一角を担って9勝11敗1セーブの成績を残し、初の球宴出場を果たしたのもこの年です。

今になって思えば、かなりむちゃをした年でもありました。2年目ながら前年覇者の阪急との開幕2戦目の先発を任されるほど首脳陣から期待されていたのですが、なぜか登板前日の開幕戦でベンチ入り。8回に穴吹義雄監督から「行くぞ」と言われ、ピンチの場面でスクランブル発進。もちろん翌日は予定通りに先発しました。

故郷の鳥取県倉吉市からバス3台で西宮球場に駆けつけた大応援団の声援を背に4失点でプロ初完投勝利。試合後のヒーローインタビューでは、首脳陣の指示で「昨日のリリーフは自分から『投げさせてほしい』と言いました」とコメントさせられたことを今でもはっきりと覚えています。

どんな職種であれ、仕事で結果が伴うようになると楽しいものです。観客動員で苦戦していた南海ですが、球場に来ない隠れファンは多く、本拠地の大阪球場がミナミの一等地にあったことから“タニマチ”と呼ばれる方々にも大事にしてもらいました。吉本興業の劇場も近く、芸人さんとの交流を通じてプロの華やかさを感じたのもこのころでした。

6月17日の近鉄戦でプロ初完封を飾るなど、球宴前までに6度の完投勝利を含む8勝をマーク。監督推薦で初の球宴出場を果たすわけですが、当時の僕には人に言えないモチベーションがありました。入団時に球団側と交わしていた“サイドレター”。入団2年以内に2桁勝利を挙げたら500万円のボーナスを支給するというものです。

80年代は甲子園出場経験のあるドラフト1位で契約金の相場が4000万円ほど。甲子園どころか公式戦でほとんど投げていない僕は3300万円だったのですが、金額が少ない代わりに出来高払いをつけてもらっていたのです。

1年目は4月半ばから一軍で先発、中継ぎ、抑えでフル回転し、33試合で5勝4敗4セーブ、防御率2・76の成績を残したのに球団から「勝ち星の内容が問題。ベテラン投手が不調でチャンスが巡ってきただけ」と難癖をつけられて年俸は300万円から460万円の微増にとどまりました。

前半戦だけで8勝を挙げた僕は「あと2勝。500万円はいただき」とソロバンをはじき、トヨタの販売店へと向かいました。注文したのはソアラの最上位グレード、3・0GTリミテッド。価格は400万円ほどだったと思います。寮生はマイカーの所有を禁じられていたため、近くに駐車場を借りて“秘密のドライブ”を楽しんでいたものです。「好事魔多し」という言葉も知らずに…。

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