野球をやるために超難関・三高を1か月で中退した小西徳郎の意地

小西徳郎

【越智正典 ネット裏】「なんと申しましょうか」の小西得郎さんは1896年生まれ。杉浦重剛の日本学園に進む。父親は小西増太郎京都帝国大学教授。ロシア文学、トルストイ研究の泰斗である。

小西さんは将来を期待されて旧制第三高等学校を受験、合格。1914年入学の秀才だったが「明治大学野球部に来たらアメリカ遠征に行けるぞ」と誘われて、1か月で飛び出した。おとうさんは烈火の如く怒って勘当した。あとで誘った男のひとり合点だったと謝られたが、もうアメリカへ行ってしまったのだからケンカにもならない。

小西さんは「明治大学野球部史第一巻」(74年駿台倶楽部刊)に語っている。

「オヤジに無断で三高を中退して、こともあろうにオヤジが一番いやがっていた野球をやるために、東京に逃げてきたのだから怒りようといったらなかった。だが、こっちも『親がそんな気なら意地でも野球をやり通してやれ』と肚が据わってきましてね。これが一生を野球にかけるスタートでした」

同史に昔の「野球界」(いまのベースボールマガジン)19年10月号の「MO生」投稿の明大野球部第7代キャプテン「快漢小西得郎君」が掲載されている。貴重な史料である。若き日の小西さんが活写されている。よくこのような史料を探してくださった…と編集委員田中茂光さん(報知新聞社、駿台倶楽部役員)に感謝している。

「明大野球部第7次総帥小西得郎君 色は白く凛とした好男子 新鋭の気は眉間にみなぎり 精悍の気は五尺の渾身に満ちあふれる英姿颯爽、得郎の名は優しくも雄々しい」

「その鉄棍には巨砲の威力無しといえども 一振快球をもってよく 敵塁を突破すべし 守りは飛球ゴロ難易のいずれを問わず前進後退右往左往、なんの澁滞もなし」

小西さんが最初にプロ野球の監督に呼ばれたのは「大東京」、「大日本野球連盟東京協会」で、職業野球6番目の球団として36年2月15日に創立された。

大東京は開幕前、小手調べに東京ガスと対戦したがなんと1対15。のちのセ・リーグ会長、大東京代表鈴木竜二が監督をクビにした。この大敗試合の審判が小西さんだった。小西さんはそのあと37年春秋38年春と大東京の監督。それから39年なかばから41年なかばまで名古屋軍監督。戦後、50年、松竹ロビンスを率いて優勝。「神主一刀流」の岩本義行さんが先輩を勝たせたくて、朝はやく起きて宿舎のトイレを清掃したと、あとから伝えられてファンを泣かせた。

52年大洋監督、53年洋松ロビンス監督。そのころ、試合が終わると小西さんの許に関係者が続々集まって来た。人望が思われた。

故、NHKアナウンサー土門正夫は、小西さんを心から尊敬していた。

「仕事が終わってから局車で永福町の小西さんのお住まいにお送りしましたが、玄関の前の門の前に停めて下さい…などと、おっしゃったことは一度もありません。決まって『勝手口にお願いします』。小西さんは奥さんとお二人で運転手さんに『お疲れさまでした。お世話になりました』と、何度もお辞儀をされていました。教えられました」 =敬称略=

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