オリックス最後の胴上げ投手が歩む第2の人生 “ノムラの教え”を胸に高校球児を指導

ヤクルト、オリックスで活躍した鈴木平氏【写真:間淳】

鈴木平氏は移籍先のオリックスで活躍、96年には55試合に登板

首位争いを演じてパ・リーグを盛り上げるオリックス。1996年以来、25年ぶりとなるリーグ優勝と日本一へ、ファンの期待は膨らんでいる。その年の巨人との日本シリーズで胴上げ投手となったのが鈴木平氏。戦力外も覚悟したヤクルト時代からオリックスで花開いた鈴木氏は、野村克也氏の教えを忘れずセカンドキャリアを歩んでいる。【間淳】

ユニホームを脱いでからは白衣を着ている。地元の静岡県磐田市で治療院を始めてから15年が経った。院長はヤクルトやオリックスなどでプレーした鈴木平氏だ。

「自分は腰、肩、肘に故障があった。それでも投げ続けられたのは体をケアしてくれた人たちがいたから。治療の効果を身に染みて分かっていたので、晩年は引退後の選択肢に考えるようになりました」

鈴木氏は東海大一高(現東海大静岡翔洋高)から1988年にドラフト3位でヤクルト入団。2002年に引退するまで主に中継ぎとして右腕を振り続けた。特にオリックス時代の5年間(1995-99年)は96年の55試合をピークに、登板数は毎年40試合を超えた。

毎日のように登板準備するタフなシーズンを乗り切るには体のケアが不可欠だった。試合前は球団トレーナーのマッサージを受け、登板翌日は専門の治療院を訪れた。「整体やカイロプラクティックでは骨の位置を調整してもらって、トレーナーにはマッサージをしてもらった。骨格を調整してから筋肉をほぐさないと疲れは残り、治りもよくないと実感していました」。

地元で治療院を開院、高校球児には「無理と無茶」の違いを説く

現役を退いた翌年の2003年から3年間、神戸市の専門学校に通いながら、市内の治療院で整体や骨盤矯正を学んだ。この期間は無収入。当時を振り返り「誰が偉いって妻ですよね。その生活を許してくれたわけだから」と感謝する。

鈴木氏の治療院には小学生から90歳近いお年寄りまで、幅広い年代が訪れる。思春期の子どもたちは施術を受けながら、両親に話せないことを打ち明ける時もあるという。体のケアはもちろんだが、地域の憩いの場にもなっている。

高校球児の来院も多い。自身の経験から伝えているのは「無理と無茶は違う」ということ。「高校生で野球を辞める子どもには、3年の最後の夏は多少痛いかもしれないが、これくらいなら大丈夫と背中を押す。勝負をかけないといけない時はある。でも、そのタイミングを間違ってしまうと、勝負をかけられなくなってしまう」。鈴木氏は、子どもたちに無茶をさせない役割を担っている。

野村ノートは現在も治療院の棚に「今でも色々な言葉を思い出す」

治療院の棚には古くなった1冊のノートがある。最初のページに刻まれた日付は1990年2月2日。ヤクルト時代にミーティングでメモしたものだ。当時の監督は野村克也氏。通称「野村ノート」だ。

投手のクセや配球などデータを駆使した「ID野球」で知られる野村氏だが、野球の理論に入ったのは、ミーティングを10回、20回と重ねてからだった。「他人の痛みが分かる人間であれ」、「責任感と使命感が知識を伸ばす」、「人間は環境、経験、遺伝でつくられる」。プロ野球選手である前に、社会人として、人としてどうあるべきかを語りかけたという。

「引退してから一層、野村監督の言葉の重みを感じるようになった。今でも色々な言葉を思い出す。貴重な時間でしたね。配球や理論も学んで、野球の考え方が変わった。ただ、自分にはそれを活かす制球力が足りなくて、ヤクルトで結果を出せなかった」

1992年の試合で相手投手に押し出し四球を許して2軍に降格した。野村監督からの信頼を失い、翌年は1軍登板なし。1995年にトレードでオリックスに移籍した。その年は50試合に登板して防御率1.83。リーグ優勝に貢献した。そして、日本シリーズで対戦したのが野村監督率いるヤクルト。試合前に挨拶に行くと「お前を嫌いでトレードに出したわけではないからな」と声をかけられたという。

治療院で仕事をしながら、磐田南高校の外部コーチも務めている【写真:間淳】

外部コーチを務める磐田南高では“人間形成”を重視する

鈴木氏は治療院で仕事をしながら、地元にある磐田南高校の外部コーチを務めている。技術指導以上に重視しているのは、野村氏の教えでもあった人間形成だ。「高校野球の目標は甲子園ですが、目的は人として大切なものを得ること」。投手が試合でどんなに失点しても怒ることはない。しかし、降板後に試合を見ていなければ声を荒らげる。礼儀を欠いたり、道具の管理を怠ったりするのは許さない。

地元の進学校でもある磐田南は、突出した選手がいるわけではない。だからこそ、鈴木氏は「頭を良くしないと勝てない。それは勉強ができるのとは違う。想定外のことが起きるのが野球なので、考える習慣と準備が大切になる」と語る。それは、野村監督が説き実践した「弱者が強者に勝つ方法」と重なる。

地元で治療院を開院して15年。プロ野球人生と同じ月日が過ぎた。鈴木氏は今の生活を「充実していて本当に楽しい。口コミで来てくれるお客さんがいて、高校生と一緒に甲子園の夢を追いかけて。お金がたくさんあるわけではないですけどね」と笑う。オリックス時代に成し遂げた輝かしいキャリアだけでは、満足のいく第2の人生は歩めなかっただろう。選手しては“どん底だった”と振り返るヤクルト時代の経験と野村氏の教えが財産となっている。

【写真】鈴木平氏がノートに書き綴った“ノムラの教え”

鈴木平氏がノートに書き綴った“ノムラの教え”【写真:間淳】 signature

(間淳 / Jun Aida)

© 株式会社Creative2