川上哲治が「巨人最高の投手」と称したスタルヒンの記憶

ビクトル・スタルヒン

【越智正典 ネット裏】巨人・川上哲治監督は「わたしが巨人軍に入団したのは昭和13年(1938年)のことですから、沢村(栄治)さんの本当のピッチングを知らないんです。このことから言いますと、巨人軍最高のピッチャーはスタルヒン投手です」

スタルヒンの幼なじみ、旭川中学(旭川東高校)でも一緒だった、味噌ラーメンの開祖、札幌の「三平」の大宮守人さん。

「わたしが通っていた啓明小学校の副校長の松本先生は偉い先生でした。ウィージャー(スタルヒンの幼名愛称)が日章小学校のときに、年齢オーバーで少年野球の全国大会へ行けなくなると、うちに野球をしにおいでと呼んだのです。ウィージャーは毎日うれしそうに歩いて啓明小学校に来ました。でも、本気で投げると打てませんので一塁でした。だれでも打てる球だったので、ゴロを打って一生懸命一塁へ走って行くと、ウィージャーの胸にピカッと十字架が光っていました」

スタルヒンの第1回渡米遠征の、おかあさんへのおみやげは泊まったホテルの石鹸だった。おかあさんは入団したときに巨人が用意してくれた赤坂の一本通りの家で、息子の帰りを待っていた。

甲陽中学、慶応大学、全大阪、48年阪神、50年毎日…の別当薫さん。

「スタちゃんにはお世話になったなあー。終戦直後の、特に北海道遠征は食糧買い出し遠征で、米はムリでしたが、ヌカ、小麦粉、ジャガイモ…。ヤミ値を取り締まる経済警察につかまると没収です。試合が終わって列車に乗って発車を待つときに“スタちゃん、たのむよ”というと“ハイよ”といってデッキに立ってくれるんですよ。気がよくてね。そこへ経済警察、スタちゃんを見ると“なんだ、進駐軍列車か”とむこうのホームへ行っちゃうんですよ」

現役のユニホームを脱いだ翌々年、57年1月12日、運転していた車が三軒茶屋で玉川電車とぶつかり、40歳の波乱の生涯を閉じた。39年、巨人でなんと458回1/3を投げ42勝。パシフィック、太陽、金星、大映、高橋、トンボ…。通算303勝。監督藤本定義を父親のように慕ってついて行った。

この日は在京の旭川中学の仲間の新年会の当日であった。「ウィージャーは道を急いだんだ。きっと淋しいことがあったんだ」

=敬称略=

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