【加藤伸一連載コラム】日米7球団からオファーも近鉄と3年契約を結んだ理由

入団会見では梨田監督(右)とがっちり握手

【酷道89号~山あり谷ありの野球路~(41)】36歳となっていた僕に再びの転機が訪れようとしていたのはオリックス移籍3年目の2001年秋でした。スポーツ紙にFA有資格者の一覧表が載り、ふと気になって新たに資格を取得したチームメートの大島公一や田口壮に球団から何かしらのアクションがあったのか尋ねたら、どちらも答えは「ありました」。正直、ショックでした。その時点で僕には何一つ話がなかったからです。

外様だからか、年齢的に上がり目がないと見られているのか…。様々な思いが脳裏をよぎりました。僕をオリックスに導いた恩師で投手コーチの河村英文さんは前年に退団しており、1994年からチームを率いた仰木彬監督は退任が決定的。まるで頭になかった「FA権行使」という選択肢が、にわかに現実味を帯びてきたのです。

僕の“思い”がメディアをにぎわすと、球団からは「2年契約」と「引退後の処遇」を条件に残留してほしいと内々に打診がありました。しかし「他球団の評価も聞いてみたい」との思いから10月26日に福岡市内の自宅からFA申請書類を球団に郵送。つまり「FA宣言」をしたわけです。

ありがたいことにオリックスを含めると非公式も込みで日米7球団からオファーをいただきました。内訳は古巣ダイエーに阪神、ロッテ、近鉄、メッツ、レンジャーズ。国内の単身赴任でもつらいのに米国なんて…とメジャーは早々に選択肢から消し、最終的に選んだのが近鉄でした。

01年の近鉄は12年ぶりのリーグ優勝を成し遂げていましたが、チーム防御率4・98は12球団ワーストで、2位のダイエーには9勝19敗と2桁負け越し。連覇を目指す上で投手陣の整備が急務で、同年にダイエー戦9試合に先発して3勝4敗ながら対戦防御率3・17とまずまずだった僕に“鷹キラー”として期待を寄せてくれたようです。もちろんそれは、うれしいことでした。しかし一番の決め手は何かと聞かれれば、ずばり「3年契約」です。いやらしく聞こえるかもしれませんが、39歳になるシーズンまで野球をさせてもらえるという条件は何よりも魅力的でした。

01年シーズンを終えて通算84勝。何とか100勝したいという気持ちもありました。だからこそチームが強いか弱いかより、たくさん投げさせてもらえるかどうかの方が重要だったのです。

統一契約書へのサインを済ませ、都ホテル大阪で梨田昌孝監督と球団幹部とともに金屏風の前で背番号14のユニホームを着て入団会見に臨んだのは12月4日。もちろん、この時点で翌春に悲劇が待っていることなど知る由もありませんでした。

☆かとう・しんいち 1965年7月19日生まれ。鳥取県出身。不祥事の絶えなかった倉吉北高から84年にドラフト1位で南海入団。1年目に先発と救援で5勝し、2年目は9勝で球宴出場も。ダイエー初年度の89年に自己最多12勝。ヒジや肩の故障に悩まされ、95年オフに戦力外となり広島移籍。96年は9勝でカムバック賞。8勝した98年オフに若返りのチーム方針で2度目の自由契約に。99年からオリックスでプレーし、2001年オフにFAで近鉄へ。04年限りで現役引退。ソフトバンクの一、二軍投手コーチやフロント業務を経て現在は社会人・九州三菱自動車で投手コーチ。本紙評論家。通算成績は350試合で92勝106敗12セーブ。

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