難民ランナーを東京五輪に導いた「不思議な運命」 避難先で才能開花、亡父に贈る晴れ舞台

 紛争や迫害で故郷を追われた難民、難民申請者、国内避難民は全世界で8200万人を超える。こうした中から11カ国出身の29人が「難民選手団」として東京五輪に参加している。アフガニスタンやイラク、南スーダンなど出身国や背景はさまざまだ。虐殺、空爆、女性差別…。過酷な逃避行に加え、避難先でも不安定な日々が続く。
 選手団の1人、ジャマル・モハメドさん(24)はスーダン西部のダルフール地方出身。「おまえは陸上に挑戦すべきじゃないか」。避難先のイスラエル。サッカーをしていたときの友人の一言がきっかけで陸上を開始、才能を開花させ男子5千メートルの出場権を手にした。スーダンで殺害された父の記憶。イスラエルで出会った支援への感謝。不思議な運命をかみしめ、8月3日、予選に挑む。(共同通信=平野雄吾)

東京五輪の陸上5000メートルに出場する難民選手団のジャマル・モハメドさん=6月、イスラエル中部テルアビブ(共同)

 ▽徒歩でイスラエルへ

 ダルフール地方では2003年以降、複数の黒人系反政府勢力と政府軍、政府系民兵組織が衝突。推定30万人が死亡し「世界最大の人道危機」と呼ばれた。政府軍に近いアラブ系民兵組織「ジャンジャウィード」による黒人集落の襲撃が相次ぎ、モハメドさんの父アブドルマジドさんも同年秋、帰らぬ人となった。19年4月、クーデターでバシル政権が崩壊。和平機運の高まりが期待されるが、ダルフール紛争の終結には至っていない。

 治安悪化と極度の貧困の中でモハメドさんは10年にスーダン脱出を決意した。母カルトマさんや下に3人いるきょうだいを支える必要もあった。知人のつてでブローカーと接触、隣国エジプトの首都カイロまで空路を利用しバスで同国北東部シナイ半島へ。その後3日間歩き、地元のベドウィン(遊牧民)の案内でイスラエルへと入った。現在、イスラエル・エジプト国境には高さ5メートル超のフェンスがそびえるが、当時は1メートルほどの柵があるだけだった。

 「英語もヘブライ語も分からず、当初、誰ともコミュニケーションが取れなかった」とモハメドさんは振り返る。「(スーダンの公用語)アラビア語でさえ、パレスチナ方言とかなり違って理解できなかった」。越境後、イスラエルの治安部隊に見つかり約3週間、入管施設に拘束された。解放後、バスの片道切符を渡され、たどり着いたのが商都テルアビブ。「ここはどこで、自分はどうすればいいのか」。途方に暮れていたとき、たまたま通りかかった同郷のスーダン人の男性に話し掛け、助けを求める。男性に連れて行かれたのは古びたアパートだった。「小さな部屋でベッドは一つ。そこに7人が住んでいた」と笑うモハメドさん。新たな暮らしが始まった。日雇いの建設作業の仕事も見つかり、家族に仕送りした。

 ▽人生変えた一言

 転機が訪れたのは14年。空き時間に友人らとサッカーをするのが楽しみの一つだったが、ある日、仲間の1人が持久力のあるモハメドさんを見て陸上クラブを紹介した。「おまえは何時間でもボールを追いかけられるから、陸上に挑戦すべきじゃないか」。貧困層の支援に力を入れる「アレイ・ランナーズクラブ」で、モハメドさんは「走ることが楽しいと気が付いた」。「ダルフールには、陸上競技なんて存在しないから走ることがスポーツとは知らなかった」。熱中するに従い成績が伸び、クロスカントリーの国際大会に出場。国際オリンピック委員会(IOC)の難民選手奨学金も得た。

 さらなる幸運も巡ってくる。「アレイ・ランナーズクラブ」でボランティアをしていたイスラエル人ヒリ・アビノアムさん(46)が17年、一緒に暮らそうと提案した。夫アサフ・ロズさん(47)も理解を示した。ロズさんの頭をよぎったのは祖母の存在だった。ポーランドの首都ワルシャワにあったゲットー(ユダヤ人隔離居住区)からドイツ北部ベルゲン・ベルゼン強制収容所に連行されたが、ホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)を生き延びた祖母。フランスを経て1946年にイスラエルへやってきた。「2人の話が重なり、放っておけなかった」と話す。

ジャマル・モハメドさん(左)とヒリ・アビノアムさん=イスラエル中部テルアビブ(タマル・サロモン・ラビ氏撮影、ジャマルさん提供・共同)

 モハメドさんはアビノアムさん一家が暮らすマンション1階の警備室で警備の仕事をしながら寝泊まりし、それ以外の時間は食事を含め、アビノアムさんの家族4人と過ごす。「10代の娘2人も彼のことを気に入っている。子どもが3人になったようだ」とアビノアムさん。「彼は幸運に恵まれているけれど、努力の人で、自分に生じる出来事を前向きに考えられる。彼と出会えた私たちもとても恵まれている」と強調する。

 避難から10年がたち、モハメドさんは英語もヘブライ語も話せるようになった。「路上で学んだ」と話すが、アビノアムさんは「練習後、疲れた身体で何時間も座って勉強する」と、モハメドさんの集中力に驚いた。モハメドさんはいずれ来る競技生活の引退後も見据え、現在、イスラエルのスタートアップ企業で働くロズさんからコンピューターについても学んでいる。

取材に応じる難民選手団のジャマル・モハメドさん=6月、イスラエル中部テルアビブ(共同)

 ▽難民認定に消極的

 順調なサクセスストーリーのようにも映るが、モハメドさんが不安定な法的立場にあるのもまた現実だ。イスラエルは世界中からユダヤ系移民を受け入れる一方、難民条約上の難民認定には消極的だ。国連難民高等弁務官事務所(UNHCR)のデータによれば、イスラエルは18年、難民申請者のうち5587人に決定を出し、認定したのはわずか6人。認定率は0・1%で、「難民鎖国」と批判される日本(同年0・25%)よりも低い。

 モハメドさんは一時的な滞在許可を与えられた「難民申請者」にすぎない。数カ月や1年など定期的に許可を更新する必要があり、更新されるかどうかは当局の裁量による。社会保障から排除されている上、海外遠征時の査証(ビザ)取得に一般市民より時間がかかる。今後、イスラエルに滞在し続けても難民認定される可能性は極めて低いとみられている。

 「ダルフールの母には、五輪出場がどんなにすごいことなのか何度説明しても分かってもらえない」。モハメドさんは笑う。今も時折、集落が民兵に襲われる記憶がよみがえりうなされることもあるが「亡き父は息子の晴れ舞台を誇りに思ってくれるはず。世界の舞台で優れた選手たちに挑戦できるのが喜びだ」。

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