普通の選手から金メダリストへ “神救援”ソフト後藤を変えた米エースの背中

決勝で対戦した米国代表・アボット(左)と日本代表・後藤希友【写真:Getty Images】

小学4年で始めたソフト、愛知・東海学園高で頭角を現すも五輪は“夢物語”

東京五輪の女子ソフトボール決勝は日本が米国を2-0で破り、金メダルを手にした。絶対的エースの上野由岐子投手と両輪を担ったのはチーム最年少20歳の後藤希友投手。「自分のレベルの低さを感じていた」という左腕が、金メダル獲得の立役者となるまでの道のりとは。

13年越しの連覇の中心には、20歳の後藤がいた。2008年の北京大会以来、3大会ぶりに五輪競技に復活した女子ソフトボール。後藤は勝てば銀メダル以上が決まるカナダ戦で“神救援”とも評された投球を披露、宿敵・米国との決勝でも1回を無失点に抑えた。

後藤の代名詞は剛速球。所属するトヨタ自動車では、今季のリーグ戦で何度か自己最速となる114キロを計測している。体感速度は硬式野球の160キロ近いスピード。さらに、ソフトボールでは珍しい左投げが大きな武器となっている。

初めての五輪で世界トップクラスの選手を圧倒した後藤だが、子どもの頃から力が突出していたわけではない。同世代の中でさえ、絶対的な存在ではなかった。ソフトボールを始めたのは小学4年生の時。小、中学生の頃を「強いチームではなく、大きな大会にも出場できなかった。自分のレベルの低さを感じながらやっていた」と振り返る。

それでも、向上心と努力は失わなかった。中学校の指導者からマンツーマンで毎日のように投球練習。納得がいくまでボールを投げ込み、フォームを固めた。この時間が実を結び、進学した地元・愛知県の東海学園高校ではエースとしてインターハイ準優勝。在学中に日本代表にも選出された。ただ、当時はまだ五輪を具体的に思い描くまでではなかった。

トヨタ自動車で米国代表左腕・アボットからエースの心得学び、急成長

「五輪に出たいと小学生の夢で書いたが、具体的なイメージをしていたのではなく、小学生が考えることです。本格的に日本代表を意識するようになったのは、実業団に入ってから」

後藤は高校卒業後、トヨタ自動車に進んだ。ここで、日本のトップを目指す意識が芽生えた。特に大きかったのが、同じ左腕でチームメートのモニカ・アボット投手の存在だった。東京五輪にも出場した米国のエースから、投球技術やマウンドでの心構えを学んだ。「世界のレベルを知ることができた。技術の高さはもちろん、人間性や意識の高さ、自分に足りないところが見えた」。目指すべきレベル、エースの心得を知った。

今季のリーグ戦で、後藤の成長を感じさせる言葉がある。5月の豊田自動織機戦。リーグ優勝のためには落とせない首位を争う相手との一戦で、自身初のノーヒットノーランを達成した。「チームの期待に応えるのも私の仕事」。1点の援護を守り抜いた後藤は、エースの自覚にあふれていた。20歳にしてまとう覚悟と責任感。五輪の大舞台でも不変だった。

女子ソフトボール日本代表が北京大会で金メダルを獲得した2008年、後藤はソフトボールを握ってさえいなかった。高校を卒業した2年前は、五輪がぼんやりとした夢でしかなかった。「1分、1秒を大事にかみしめて、ソフトボールを続ける上で成長する経験にしたい」と臨んだ初めての五輪。金メダルに貢献した中心選手として夢を実現させた。(間淳 / Jun Aida)

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