「最後の務め」 岡信子さん 声なき声伝える決意 「平和への誓い」読み上げる

「平和への誓い」の封筒を手に、「最後の務めとして、読み上げたい」と語る岡さん=長崎市住吉町

 8月9日の長崎原爆の日の平和祈念式典で、被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げる岡信子さん(92)=長崎市住吉町=。被爆直後の救護所で、看護学生として過酷な状況の中、負傷者の対応に当たった。しかし、長年その記憶にはふたをしたまま、ほとんど語ってこなかった。90歳を超えた今、「生かされた者の最後の務め」として被爆者代表に初めて応募。戦没者の声なき声を伝える決意を強くしている。
 7月3日。同市文教町の純心女子高内にある江角記念館。岡さんは、長崎純心大の学生2人に戦争や原爆への思いを伝えていた。
 「私たちの力でどうにもならないことだった。核があったからこそ、戦争になった。核がなくならないことには平和にはならない」
 2人はいずれも人文学部2年の鍜治美里さん(19)と、平山英恵さん(19)。岡さんの「交流証言者」として、被爆の実相を伝えていくため、今年から被爆体験を聞いている。資料を示しながら説明する岡さんの言葉に耳を傾けていた。
 平山さんは「強くて、やさしくて、温かい人柄の岡さん。救護の現場での証言は貴重なもの。これまであまり語られていなかったとのことで、しっかりと伝えていきたい」と話した。
 こうした若い世代の取り組みに、岡さんは「うれしいし、ありがたいこと」と目を細めた。
     ■ 
 被爆当時16歳。大阪の看護専門学校に通っていたが、爆心地から1.8キロの長崎市東北郷(現在の住吉町)の実家に帰省していて、原爆に遭った。直後に日赤長崎県支部からの召集で、新興善国民学校の救護所に動員された。肉や皮が垂れ下がった状態の負傷者を救護。亡くなった人は戸板に乗せられ、外のトラックに運ばれた。
 思い出したくない、話したくないと、記憶は胸にしまいこんでいたが、8年ほど前に初めて新聞やテレビの取材を受けた。昨年、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館に被爆体験記を寄せたことをきっかけに、平和祈念式典に出て平和を訴えたいとの思いが日に日に強まった。
 応募はしたものの、自信はなかった。公募の申込書に所属団体を記入する項目があったが、空欄で提出するしかなかった。報道機関の取材を受けたり、依頼を受けた大学で講話をしたりしたが、平和団体などに属して取り組んだことはない。だからこそ、選ばれた時はうれしくて、思わず涙があふれた。
 長崎純心高等女学校の同級生は多くが原爆で亡くなった。次兄は25歳で戦死した。岡さんは「私1人の声ではなく、原爆や戦地で亡くなっていった人たちの分まで発信したい」と心に決めている。

大学生2人に、自身の体験や戦争への思いを伝える岡さん(中央)=長崎市文教町、江角記念館

© 株式会社長崎新聞社