800キロの大牛相手に頭突き特訓した大木金太郎 ルー・テーズとの“セメントマッチ”真相

大木が大牛と原爆頭突き特訓(72年11月、韓国・太白山)

【プロレス蔵出し写真館】東スポが一面でプロレスを扱っていた昭和の時代は、シリーズの合間やビッグマッチを前にすると様々な煽り写真が紙面を飾った。

その中でも、インパクトのあった一枚は〝韓国の猛虎〟キム・イル=大木金太郎が、大牛に得意技の原爆頭突きを叩き込もうとしている場面。これは今から48年前の昭和47年(1972年)11月、韓国の太白山で撮影された。

この年の10月、ジャイアント馬場が保持していたインターナショナル王座を返上し、日本プロレスから独立して全日本プロレスを旗揚げした。そのため12月1日、横浜で大木と〝黒い魔神〟ボボ・ブラジルの間で王座争奪戦が決定。大木はその決戦に備え、ソウルから東へ約200キロ、日中の気温が零下5度という江原道の太白山山中で山ごもり特訓を敢行した。

〝頭突きの強化〟特練の相手は、麓の農村で飼育されていた800キロの赤毛の大牛だ。大牛の両角を持って押し合い、ガンガン頭突きを叩き込む。すると大木の額が割れて流血、それでも頭に包帯を巻いて頭突き特訓を続けた。

しかし、〝頭突き世界一決定戦〟と銘打たれた王座争奪戦には敗退。3日後、広島での再戦に勝って、念願だったインター王座を手に入れた。

大木は温厚な性格で、しゃべりもソフト。関係者、マスコミからは親しみを込め「金ちゃん」と呼ばれていた。韓国では卍固め、ドロップキックなども使い一部で〝韓国のアントニオ猪木〟との呼称も…。

日本で一番輝いていたのは、76年からキム・ドクとのコンビで全日本に参戦していた時期ではないだろうか。馬場、ジャンボ鶴田組とのインタータッグを巡る抗争はファンの支持を集めた。

大木は馬場、猪木と並び、力道山門下生〝三羽烏〟の一人で、猪木のデビュー戦の相手を務めたことはオールドファンには知られた話だ。その猪木とは、15年後の74年10月10日、新日本プロレスの蔵前国技館で行われたNWF世界ヘビー級選手権で激突。試合を前にグアムでキャンプを張った大木は、猪木の顔のイラストと「破壊」と文字が描かれたズタ袋に砂を詰めヘッドバットを打ち込んだ。

試合は、真っ向勝負となりファンを熱狂させた。大木は惜敗したが、後世に残る名勝負を展開した。

大木の印象深いエピソードのひとつにルー・テーズとの一戦が挙げられる。64年10月16日、米ヒューストンで大木はテーズのNWA世界ヘビー級王座に挑戦。試合途中からテーズにセメントを仕掛け、頭突きを乱打。テーズはヘッドロックに捕らえ、顔面パンチで反撃。大木は右目の上と前頭部を切り流血させられ、バックドロップを食らい返り討ちにあった。病院に搬送され、24針を縫う重症だった。

後年、大木がセメントを仕掛けたのは、世界王座を奪取すれば「力道山襲名」という密約話があったからだといわれた。そのテーズは、95年4月2日、東京ドームで行われた大木の引退セレモニーで大木の車いすを押して花道を進んだ。

06年10月26日、心不全で韓国・ソウル市ノヴォン区乙支(ウルチ)病院で逝去した大木の訃報を聞き、すぐさま渡韓したのは猪木。〝三羽烏〟の中でも大木との絆は特別だったようだ。

そんな大木は20年5月下旬から、国家功労者が眠る韓国の国立墓地に埋葬されている(敬称略)。

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