【プロレス蔵出し写真館】日本ではヘタレ扱いだったオンドーフ 米国で大出世しホーガンの好敵手に

レッスルマニア1でホーガン、セコンドのジミー・スヌーカ、ミスター・T(左から)と対峙するオーンドーフ、左端はレフェリーのパット・パターソン(85年年3月、MS・G)

12日に“鋼鉄男”の異名で呼ばれたポール・オーンドーフが死去した。享年71。

オーンドーフといえば、真っ先に思い出されるのは、欧州武者修行を終えて帰国した前田日明とのシングルマッチ。オーンドーフが2度目の来日を果たした、今から38年前の昭和58年(1983年)4月21日、新日本プロレスの東京・蔵前国技館で行われた前田の凱旋帰国第1戦だ。

オーンドーフは何もさせてもらえず、まったくいいところがなかった。フロントスープレックス、フライングニールキックを食らい、リバースアームサルトで投げられ、その体勢のまま、わずか3分36秒で敗退した(記録は風車固め)。まさに、前田売り出しのための引き立て役だった。

エース外国人レスラーと期待されたオーンドーフだったが、前田との一戦が、日本での評価を決定的にしたと言っても過言ではない。新間寿営業本部長も「あのカードは失敗だった」と後に語っている。

ちなみに、前田とはその後も何度か対戦しているが、ニールキックを嫌がり、正面で受けずに、背中や上腕でキックを受けるという行動が、マイナスイメージとして定着した。4度目の来日となった83年10月を最後に、オーンドーフが日本の土を踏むことはなかった。

93年にルー・テーズの紹介でUWFインターが4月10日の大阪大会に参戦をオファーして来日が決定したが、相手がゲーリー・オブライトに決まると、そのオファーをドタキャンした。

プロレスライターの流智美さんは「あの前田との一戦がトラウマだった。ゲーリーはスープレックスが得意技だったから。また、かませ犬にさせられると懸念したんでしょうね」と語る。

さて、日本プロレスの時代から「日本帰りは出世する」という格言があったが、これはオーンドーフにも当てはまるだろう。84年からWWF(現WWE)入りし、ハルク・ホーガンとの抗争が人気を博した。

85年3月31日、ニューヨークMS・Gで開催された記念すべき「レッスルマニア」第1回大会のメインイベントで、ロディ・パイパーとタッグを組み、ホーガン&俳優のミスター・T(米国のテレビドラマ「特攻野郎Aチーム」に出演=日本でも吹き替え放映された)組と対戦している(写真)。この試合はモハメド・アリがサブレフェリーを務めるという豪華なものだった。

同年9月には米国で発行されていた人気写真グラフ誌「LIFE」のWWF特集では、4人の大人が座ったベンチを肩に乗せて担ぎ上げるパフォーマンスが見開きページで掲載されるという破格の扱い。翌86年8月28日に、カナダ・トロントで行われたホーガンとのWWF世界ヘビー級選手権はソールドアウト6万4100人もの大観衆を集めた。

WWF離脱後はWCWに戦いの場を求めたオーンドーフ。しばらくして筋肉の病気を患い、右上腕二頭筋が細くなり始めた。左腕の半分ほどになり、ついにはサポーターで隠し切れなくなり、首を負傷したことも相まって引退を決意した。

オーンドーフは日本での評価は低かったが、米国ではトップレスラーとして活躍した。

謹んでご冥福をお祈ります(敬称略)。

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