【昭和~平成 スター列伝】マサ斎藤&サンダー杉山 五輪発アウトロー人生…78年たった一度の共闘

78年、「プレ日本選手権」の狼軍団。左から2人目が斎藤、4人目が杉山

1964年東京五輪で男子レスリングは、国別で最高となる5選手が金メダルを獲得した。同時に後にプロ入りして異彩を放った2人の名レスラーが誕生している。“獄門鬼”ことマサ斎藤(斎藤昌典)と、雷電ドロップを必殺技としたサンダー杉山(杉山恒治)だ。共通点は多く、いずれも明治大レスリング部出身(斎藤は在学中)。斎藤はフリースタイル・ヘビー級(+97キロ)、杉山はグレコローマン・ヘビー級でそれぞれ3回戦まで進んでいる。

2人は五輪終了後、65年に日本プロレスに入団。将来を担うエリートとして期待されたが、その後に歩んだ道は、お互いに波乱に満ちたものだった。

斎藤は66年8月、豊登、アントニオ猪木らが旗揚げした東京プロレスに移籍。翌年に団体が崩壊すると日プロ復帰を経てフリーの道を選び、単身渡米。トップヒールの地位を確立する。五輪出場経験者とは思えない「一匹狼」そのものだった。

72年に帰国すると日プロから新日本プロレスに参戦。その後は新日本を主戦場とした。80年代には長州力との維新軍で参謀格を務めて一大ブームを支えた。84年には米国で暴力事件に巻き込まれて約1年半の服役も経験。帰国後の87年10月には、もはや伝説となった「巌流島の戦い」で猪木と死闘を展開する。もはや生きざまそのものがレジェンドである…。

一方の杉山も67年に国際プロレスの旗揚げと同時に移籍。斎藤同様に主戦場を海外に求め、NWA北米地区で「トーキョー・ジョー」のリングネームで活躍。68年2月に帰国後はエース格として国際を支えた。70年5月にはビル・ロビンソンを破り、日本人として初めてIWA世界ヘビー級王者にもなっている。

ユーモラスなアンコ型体形にもかかわらず、ジャーマンを得意とし、巨体をドスンとお尻から落とす雷電ドロップを武器に活躍するが、72年9月には全日本プロレスに移籍。76年3月には退団して再度フリーの道を歩む。

流転に次ぐ流転のプロレス人生を歩んだ2人だが、78年に一度だけ共闘が実現した。78年11~12月に新日本が開催した「プレ日本選手権」に、ヒロ・マツダをリーダーとして斎藤、杉山、上田馬之助らフリーの大物らが“狼軍団”として参戦したのだ。結果はシード扱いの猪木が予選リーグを勝ち抜いたマツダを下して優勝。五輪から14年目の短い再会劇だった。

その後、斎藤は90年2月に47歳でAWA世界ヘビー級王座を奪取。99年2月のスコット・ノートン戦を最後に引退し、晩年は愛弟子の佐々木健介率いる健介オフィスに所属したが、2018年7月にパーキンソン病のため75歳で亡くなった。

杉山は人なつっこい独特のキャラクターを生かして、現役時からテレビ番組で活躍。実業家としても成功したが、80年6月を最後に引退試合もしないままフェードアウトした。糖尿病の悪化により右手首と両足の切断という悲劇に見舞われ、02年に62歳で帰らぬ人となった。

五輪出場経験者のプロレスラーは多いが、1964年東京五輪はエリートとは程遠い「アウトロー」2人を生みだした。今大会終了後にもドラマは起きるのだろうか。(敬称略)

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