谷口智彦のこの一冊|手嶋龍一著『鳴かずのカッコウ』 安倍晋三前総理のスピーチライターを務めた慶応義塾大学大学院教授の谷口智彦氏が選ぶ珠玉の一冊!

255ページ辺りに待ち構える大転回に、息を呑む。残り50ページ足らずは、巻措く能わざる、文字通りのページ・ターナー。電車で読んだら、駅の乗り過ごしに要注意だ。

本作はいわゆる「インテリジェンス小説」のジャンルに属す。著者が別の場所で与えた定義によると「インテリジェンス(著者によれば「公開情報や秘密情報」)を精査、分析して、近未来に起きるであろう出来事を描く」ノベルを指すらしい。

これは、そのようなものとして自作を読んでくれという自薦の弁だろう。本邦に、同範疇の作家は少ない。著者は先導者の一人として、自ら恃む所があるに違いないからである。

実際、この分野を書くには固有の困難がある。第一に、事実としていかにも起きそうな事象を扱う以上、国内外で進行中の、できれば知る人ぞ知る事情に通じていなくてはならない。著者は佐藤優という手強い外交批評家を相手に対談しては新書にし、刊行することで、必要な知的筋力を鍛錬し続けているかに見える。

第二に、プロの本職が読んで唸るくらいの内容になって、初めて説得力がつく。その首尾不首尾は、公安調査庁の調査マンを主人公とした本作で、とりわけ作品の命に関わる。同庁職員をつかまえて、著者は根掘り葉掘り取材をしただろう。

誰かを尾行するには、四人一組でかかる。その際の現場責任者を「ゲンセキ」と呼ぶそうだ。公安調査庁だか警察だかに聞いて、内輪の符牒を知り書いたのだろうが、いずれにしろ情報源との親交がないと、迂闊に手を出せない分野であることがわかる。ちなみに尾行場面は本作山場の一つで、神戸の街を歩き、走り回る描写は疾走感に富み映画的だ。

書評子は本作で、使えなくなった船の解体は「解撤」と呼ぶのだと知った。自動車運搬船は古くなっても中古市場へ出さず、すぐさまバングラデシュなどで解撤させる。それは運賃市況の値崩れを防ぐカルテルなのだとも学んだけれど、よもやこんなところで著者は創作などすまい。調べて書いてくれていると思うから、読みつつ賢くなった気がする。著者の術中に、かくしてはまる。

虚を描きつつ、実を思わせる。両者のあわいに身を浸す愉楽を演出する鉄則。それが第三の特徴で、固有名詞への徹底的なこだわりである。

神戸の商店街に、主人公の青年が立ち寄る古本屋があるといって、著者は名を記している。そして同名の古書店は、確かに実在する。

練達の域に達した著者の筆に身を委ね、伏線の展開に「あっ」とか「はぁ」とか奇声を発しつつ読むと、本書は読み慣れた人なら一日で読了できる。ただしその気があるなら、出てくる地名や情景描写をいちいちネットで検索し、間違いないか調べるといい。何日でも味読できる。

神戸港へ来る船に便益を提供する会社が、本書に登場する。現社長は三代目で、名は洋介。神戸製鋼を退社し実家を継いだのが1985年、31歳の時だという。元神戸製鋼社員というと安倍晋三前首相。しかも同い年、三代目(政治家の)だ。すると洋介という名は同氏の母洋子さん、祖父岸信介から一字ずつ取ったものか。大いにあり得るとみた。

ところでなぜこの題名なのか。本書は、主人公の成長を描くビルドゥングス・ロマン(成長譚)でもある。そこを語って著者が最も力を込めた箇所に、由来の説明が出てくる。なあるほどお、と、頷く説明が。(初出:月刊『Hanada』2021年6月号)

谷口智彦

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