本物の虎とパチリ! ヒールを究めたタイガー・ジェット・シンと猪木の“本当の関係”

タイガー・ジェット・シンが本物の虎と共演?(91年2月、東京ドーム前特設テント)

【プロレス蔵出し写真館】〝インドの狂える虎〟タイガー・ジェット・シンと本物の虎が共演? これは今から30年前の平成3年(1991年)2月12日、新日本プロレス・東京ドーム前特設テント大会での試合前のひとコマだ。

この日の興行は非常にレアなもので、前年の12月から開催されていた「アメリカン・サーカス」のアーチ形のナイロンテントの中で行われた。サーカスの休演日に会場をそのまま使用し、サーカスのリンクにリングが組まれた。五色のカクテルライト、ピンスポット、座席もサーカスで使用しているものをそのまま利用。頭上では空中ブランコが揺れていた。会場の隣には動物を飼育する檻があり、試合の最中に猛獣の吠える声が聞こえるという、なんともユニークな状況で試合が行われた。

シンの控室を訪ねると、トラとのツーショットを撮るよう要求され、様々なポーズを決めご満悦の様子だった。

シンは90年6月8日、日本武道館でのアブドーラ・ザ・ブッチャー戦を最後に全日本プロレスを離脱。同年9月30日にアントニオ猪木のデビュー30周年イベントで、猪木と一夜限りのタッグを結成して以降、新日本に本格的に参戦していた。

シンといえば、今でこそ〝いい人〟というイメージが定着しているようだが、新日本に初登場した73年からの猪木との一連の死闘が、今でも脳裏の片隅に残っている。

73年5月4日、川崎市体育館で試合を観戦していた謎のインド人が突如乱入し、山本小鉄をコブラクローで血祭りに上げた。後に、シンが幻の強豪レスラー、ヒンズー・ハリケーンと判明し当時のファンは納得した。ネットのない時代は本紙や、専門誌の情報しかなく、来日するまでそのレスラーの力量は計りかねたからだ。

ちなみに、本紙で初めて紹介されたのは「〝聖闘ガマの後継者〟豪語」(※伝説のインド人レスラー、グレート・ガマ以来の実力者という内容)と見出しが付けられた67年12月22日付け紙面だった。

シンは、猪木との抗争を終結し全日本に移籍してからは、輪島大士のデビュー戦の相手に抜てきされたことぐらいで、あまり表立った活躍はできなかった。

シンが再び凶暴さを披露したのは、新日本に復帰してからだ。91年の3月1日、「ビッグ・ファイト・シリーズ」の開幕戦が行われた長野・諏訪湖スポーツセンターの駐車場で、試合を終えて帰路につく長州力と馳浩の乗った乗用車「トヨタ・セリカ」を、シリーズに参加予定のなかったシンが金属バットで襲撃。フロントガラスを破壊した。

これは、猪木のレスラー生活30周年を記念して発足した「グレーテスト18クラブ」が認定する初代王者に長州が指名されたことによる不満から、自費で来日し長州との一騎打ちをアピールしたものだった。

そして、3月21日に東京ドームで行われた長州戦はノーレフェリー、反則フリーの変則デスマッチ。勝敗はギブアップか、立会人ヒロ・マツダ裁定の10カウントで決定するというルールで行われた。試合はシンがKO負けを喫し、2月6日の札幌大会に続き長州に2連敗した。

さらに、この年の12月18日には馳との巌流島対決にも敗退。この後シンは、FMWを始めインディー団体に活躍の場を求めることとなる。オールドファンにとっては非情に寂しい気持ちで見守るしかなかった。

正式な引退はしていないシンだが、さすがに77歳となった今、グレート小鹿のようにはいかないだろう。

後年、関係者の話として、シンにサーベルをくわえさせたのは猪木のアイデアだったと明かされたが、今さらながら猪木のプロデュース力には驚かされる。また、シンもそれに応え〝狂人〟のイメージをつくり上げたのはさすがだった。これほどのヒールレスラーは、今後出現することはないだろう(敬称略)。

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