終戦76年 遺された戦時の物語〈下〉長岡空襲から生還 上越市の倉林一郎さん 何も残さず焼かれた 

 上越市春日新田2の倉林一郎さん(89)は6歳の頃、父の転勤で家族3人で長岡市に引っ越した。弟が3人生まれ、小学校を卒業し、中学校に進学した昭和20年8月1日、長岡空襲に遭遇した。

 旧長岡市の借家で生活していた倉林さん一家。1日午後8時30分ごろ、夕食後のおやつに全員でジャガイモを食べようとしたとき、警戒警報が発令された。当時、米軍の爆撃機が日本沿岸に近づくたび、毎日のように発令されたため、緊張感は全くなかったという。

 念のため、父が掘った防空壕(ごう)に避難。特に音は聞こえなかったが、しばらくすると北側の長岡駅方面が明るくなり、ガソリンの臭いがし始めたため、父の提案で軍隊の防空壕へ避難することにした。

 家から南東に300メートルほどの長岡操車場そばに、防衛のため軍隊が駐屯していた。多くの人が避難していて、自分たちは防空壕入り口近くに入った。静かに待っていると「東の方へ逃げなさい」と兵士に避難を促された。

 線路沿いの農道を歩き、旧長岡市の南東、高畑付近の小高い森に着き、初めて燃える市街を見た。父は職場を心配して長岡機関区へ向かい、残った家族でじっとしていた。

 夜が明けて戻ると自宅は焼け落ち、最初に避難した防空壕には焼夷(しょうい)弾が転がっていた。父が戻ると、家族全員で宮内駅から汽車に乗って上越市春日新田の実家へ帰った。曽祖母と祖父母、親戚たちは無事を喜び、13日後に終戦を迎えた。

 その後も困窮した生活は続き、年内に曽祖母と祖父が死去。食料が手に入るようになったのは昭和26年ごろになってからという。倉林さんは「空襲は何も残さず焼いてしまった。今は何でもすぐに手に入るが、それがどれだけありがたいことか、考えてほしい」と問い掛ける。

当時の長岡市の地図を基に体験を語る倉林さん

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