戦争の記憶 2021ナガサキ 事故死の父も「犠牲者」

生前の父が写った家族写真を見詰めながら、父が亡くなった日の記憶をたどる田中さん=雲仙市小浜町富津

 「徴兵されてなかったけれども、父も戦争の犠牲者の一人」。雲仙市小浜町富津の田中初代さん(82)は8月15日の終戦の日が近づくたびに、この思いを拭い切れなくなる。父秀吉さん=享年(40)=は1945年3月、水上特攻艇「震洋」の基地を造る勤労奉仕中に事故死した。
 当時は本土決戦に備え、特攻艇基地の建設が急務で全国各地に造られた。震洋は全長約5メートルでベニヤ板製。爆薬を積み、体当たりで敵艦を攻撃した。長崎県内では東彼川棚町に訓練所、雲仙市や長崎市、佐世保市、五島列島に基地の跡が残る。
 雲仙市南串山町の京泊漁港の基地跡には記念碑が立ち、そばの岩山には震洋を収容するために掘削された横穴がある。碑文や町郷土誌、地元住民によると、基地整備は1日3交代制の突貫工事で、操縦士を務める飛行予科練習生(予科練)の若者たちのほか、近隣町村の住民も持ち回りで勤労奉仕した。
 出撃前に終戦を迎え、予科練生は命を落とさなかったが、その陰で、複数の住民が横穴掘削の発破に巻き込まれるなどして犠牲になったという。
 初代さんは当時6歳。祖母と両親、弟2人で富津地区に暮らしていた。同地区は3月5日が勤労奉仕の日で、全世帯から1人ずつ動員された。父らは雨の降る夜明け前、ちょうちんを手に約14キロ離れた京泊漁港へ徒歩で向かった。
 初代さんは父の最期の日を振り返る。夕方近く、「とったん(父親)がけがした」と、母初音さんが血相を変えて家に駆け込んできた。国民学校にある電話を通して容体が伝わってくる。「大きな岩が胸に当たった」「岩の下敷きになった」「もう駄目らしい」。居ても立ってもいられず、家族で京泊へ行こうと家を出たところ、訃報が届いた。
 その日の晩、父が担架に乗せられて無言の帰宅。家に入れないほど近所の人が集まり、父の友人が「鉄砲の弾が当たっても大丈夫なくらい元気だったのに」と泣き崩れていた。
 苦難は続き、終戦後の9月には4歳下の弟が病死した。秋には中国から引き揚げてきた親戚4家族、20人近くが家に身を寄せた。一家族目が来たとき、「大勢が来て楽しくなる」と喜んだが、もてなしの料理を作る母が悲しそうに涙を流しているのを見て、「あっ、違うんだ」と感じ取った。
 父亡き後、母は畑を耕して家族を養っていた。「どうやって生活していこうか不安で泣いていたのだろう」と思う。
 もうすぐ終戦の日。「父は戦地で亡くなったのなら諦めもついたと思うが、事故で命を落として無念だったに違いない」「終戦がもう少し早ければ、母も1人で苦労することはなかったはず」。初代さんは生前の父が写る家族写真に目を落とし、思いを巡らせている。

水上特攻艇「震洋」の基地として掘られた横穴=雲仙市南串山町、京泊漁港

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