ダルビッシュの恩師・若生監督追悼秘話 報道陣の前では「タヌキ」でも

東北高校時代の若生さん(左)とダルビッシュ有(2004年)

現在、全国高校野球選手権大会の真っただ中だ。そうしたなか、東北高校(宮城)の監督時代にダルビッシュ有投手(現パドレス=35)を擁し、2003年夏の甲子園で準優勝した若生正廣さん(享年70)が7月に肝細胞がんのため死去し、プロ・アマ野球界は悲しみに暮れた。若生さんは12年3月に1か月間、本紙野球面でダルビッシュの高校時代をつづった連載「飛翔~有と歩んだ1276日回顧録~」(全15回)を展開した。当時の未公開秘話を今、明かす――。

“ダルの恩師”若生さんは7月27日、地元である仙台市内の自宅で死去した。東北と九州国際大付(福岡)を率いて甲子園に春夏通算11回出場。春(11年)と夏に1度ずつ準優勝した名将だった。

ダルビッシュが大リーグに挑戦する直前の12年1月。九州国際大付監督だった若生さんは、ダルビッシュの東北時代を語る本紙の連載企画を引き受けてくれた。その理由は「そろそろ野球人生も終わり。何か残せればと思ったんよ。一生懸命生きてきた証しをね」。東北弁と福岡弁が交じった、あの特徴的なしゃがれ声でニッと笑った。

ふくよかな体と報道陣の取材に本音を隠して受け答えすることがあったため、地元メディアからは「タヌキ」とも称されていた。

連載のタイトル「飛翔」は若生さんが決めた。「有には現状に満足しないで、世界へ羽ばたいてほしいけん」。目尻が下がった。

連載の取材は複数回にわたった。ある時は、北九州市内の自宅マンションで。ダルビッシュを育てたためか、名将には周囲からやっかみが飛んでいた。いわく、「若生監督の給料は1000万円超らしい」――。

若生さんは不満があったそうで、これについて自ら切り出し、記者に直近の月の給与明細を見せてきた。

「な、違うやろ?」

確かに、その金額に12か月を掛けても1000万円は超えなかった。

「給料のほとんどを(仙台に住む妻に)仕送りしてるんよ。私は月16万円程度で生活している。それで十分」

ある日の食事は、ご飯と漬け物、それに牛乳だった。

07年に両足に難病の黄色靱帯骨化症を患ってから車イスや杖をついた生活をしていたが、自宅では工夫をこらした。

キッチンと冷蔵庫の近くにダイニングテーブルとチェアを配置。そこに座ったまま食べ終えた皿を流しに出したり、冷蔵庫からモノを取り出したりできるようにした。

報道陣の前では「タヌキ」になったが、グラウンドから離れればフツーのおじちゃんだった。

故人をしのび、当時の連載「飛翔――」を本紙のプラットフォーム「東スポnote」で18日午後1時から無料配信する。

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