海ごみ「一つ拾うことから」 蛤浜会代表 亀谷謙一郎さん(77)

「シンプルにただ、ごみを拾うだけでいい」と語る亀谷さん=新上五島町、蛤浜

 遠くで、海水浴客のはしゃぐ声が聞こえる。夏の日差しに輝く青い海と白い砂浜。新上五島町七目郷の蛤浜は、県内でも指折りの風光明媚(めいび)な海水浴場だ。
 帽子を目深にかぶり、長袖シャツを着て、ゴム長靴を履き、手には熊手。そんな格好で空いた時間には浜に出て、ごみを拾い集める。「大潮の満潮の時だけは漂着ごみが上の方まで来るので運ぶのが楽になる」。真っ黒に日焼けした顔で、そう言って笑った。
 毎年、島外から多くの観光客が訪れる蛤浜。白砂青松の美しいこの砂浜も、漂着ごみなどの問題を抱えている。海開き前は町役場などが音頭を取り、町民らがごみ拾いに励むが、シーズンオフは大掛かりな清掃活動はない。それでも清掃をやめない。そんな姿を見て、妻は「あなたの住所は蛤浜よね」とからかう。どうしてそこまでするのか。できるのか。理由がある。
 旧満州で生まれた。終戦前に一家は引き揚げ、父の出生地である新上五島町有川郷に戻った。戦後の暮らしぶりは厳しかった。中学卒業後、父の制止を振り切って島を飛び出し、大阪の足袋屋や牛乳屋、土木作業などの仕事を転々。どれも長続きせず地元に帰り、映写技師見習いとなった。
 島は捕鯨の好景気の中にあった。二十歳を過ぎ、東京に本社を置く捕鯨船団の冷凍船に乗ることに。収入が安定し仕送りもできるようになり、家計を支えた。父親が喜んでいた-と後で弟たちから聞いた。
 24歳の時、東京の水産会社のトロール船に移った。海外へ出漁し、多くの時間を洋上で過ごした。アフリカ・モーリタニア辺りでタコ漁をしていた時、領海間際だったのか船が銃撃される危険な目にも遭った。40代半ばで別の船にも乗ったが、けがもあって、65歳の定年を機に船乗り人生に終止符を打った。
 幼い頃から大好きだった蛤浜。帰郷後、散歩していて、ふと思い出した。スペインのカナリア諸島で荷上げしたときの記憶。たくさんの観光客がいるのにごみが見当たらなかったこと、清掃員らしき人たちが大勢いて海辺を掃除していたことを。
 「足元のごみをまず自分が一つ拾うことから始めよう」。そう思った。志を同じくする仲間がだんだん増え、ボランティア団体「蛤浜会」(約10人)を結成した。「環境問題というと難しくなりがち。シンプルにただ、ごみを拾うだけでいい。海はみんなのもの。みんなで大事にしなければ。それに、蛤浜は上五島の宝だから」
 そう言って、腰を少しかがめ、手を伸ばす。古里の海は青く、凪(な)いでいる。

熊手で漂着ごみをかき集める亀谷さん

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