【高校野球】甲子園で松坂大輔以来の「コール」を受けた12年前の準V右腕 今実感する“財産”とは…

2009年夏の甲子園の決勝に先発した日本文理・伊藤直輝【写真:共同通信社】

伊藤直輝さん「10年経って、あの夏を財産と感じるようになった」

甲子園には毎年のように野球ファンが語る伝説の一戦がある。2009年夏、日本文理と中京大中京の決勝戦。あと1死でゲームセットと追い込まれた日本文理が、1点差にまで迫る猛攻を見せた。当時の日本文理のエースは「10年経って、あの夏を財産と感じるようになった」と振り返った。

無意識にベンチ前でキャッチボールを始めていたという。新潟県の日本文理で当時エースだった伊藤直輝さんは振り返る。伊藤さんは東北福祉大、ヤマハで野球を続け、現在はヤマハ野球部のマネジャーを務めている。

6点を追う9回。走者を出せず2死となり、伊藤さんの頭には「この回が最後かな」とよぎった。だが、体は次の回に備えたキャッチボールへと自然に動いていた。1番打者が、あと1ストライクまで追い込まれながら四球で出塁。盗塁で二塁に進むと、続く打者の二塁打で1点を返した。さらに、3番の三塁打で4点差とした。

中京大中京には、まだゆとりがあった。マウンドの堂林翔太投手(現広島)は笑顔で仲間に声をかけていた。中京大中京の勝利を疑う観客もほとんどいなかっただろう。そんな中、伊藤さんは相手に付け入る隙と可能性を感じていた。「堂林で試合を締めようとしていたので」。中京大中京はチームの柱だった堂林を9回に再登板させた。伊藤さんの目には、勝ちではなく勝ち方にこだわる中京大中京に、わずかな慢心と油断を感じていた。

ヤマハのマネジャーを務める伊藤直輝さん(右)【写真:間淳】

2009年夏の甲子園、中京大中京との決勝は「人生が変わる試合」

何かが起きる。見えない力が働いているのか。そう思ったのは、4番打者の打席だった。2球目を打ち上げて三塁へのファウルフライ。試合終了かと思われたが、中京大中京の三塁手が打球を見失ってファウルとなった。マウンドで汗を拭う堂林の表情からは余裕が消えた。続く3球目に死球を与えて降板した。

日本文理打線は中京大中京を呑み込み、甲子園の観客も味方につけていた。5番が四球を選んで満塁となって、6番の伊藤さんが打席に入った。球場からは「伊藤コール」。特定の選手の名前が沸き起こるのは1998年に春夏連覇を達成した横浜高のエース・松坂大輔以来だったという。

熱狂するスタンドとは対照的に、伊藤さんは不思議な感覚だったと振り返る。「応援が聞こえず、自分の名前だけが耳に入ってくる。信じられない攻撃をしているのに、何も感じず緊張もしていなかった。ボール球に手を出さないようにと頭の中を整理できていたし、ボールもよく見えていた」。変化球が2球続いた3球目。狙っていた直球を振り抜く。レフト前へ運んで2人の走者を返した。最終的には1点及ばず、準優勝に終わった。それでも、伊藤さんの心に広がったのは、充実感と達成感だった。

この激闘は甲子園の歴史の新たな1ページとなり、今も語り継がれている。伊藤さんにとっても「人生が変わる試合」だったが、その感覚が強く芽生えたのは現役を引退してからだという。

「あの大会で打者との駆け引きを学んだし、大舞台を経験したので大学や社会人の大会でも心のゆとりはあったかもしれない。ただ、あの時の経験を財産と感じているのは2年前からですね」

ヤマハのマネジャーを務める伊藤直輝さん(右)【写真:間淳】

「もしかして、あの伊藤さん?」甲子園が話のきっかけに

甲子園の激闘から10年後の2019年、伊藤さんは社会人野球の名門・ヤマハでユニホームを脱いだ。そして、監督から打診されたマネジャーの道を選んだ。スケジュール管理をしたり、用具を発注したり、野球漬けの生活から一変。社外の人や野球に携わっていない人と接することが大幅に増えた。

社会人経験の浅い伊藤さんにとって戸惑うことは多い。そんな時、助けになるのがあの試合。名刺交換で名前や出身地などを伝えると、「もしかして、あの伊藤さん?」と甲子園が話のきっかけとなる。世代が違っても、高校球児ではなくても、多くの人の記憶に残っているのだ。

「あの夏が人のつながりを生んでくれている。甲子園の経験は思い出ではない。今とこれからに生きる財産」

甲子園の伝説となった一戦は年月を重ねて輝きを増している。(間淳 / Jun Aida)

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