【高校野球】甲子園決勝で9回2死からの大逆襲 伝説の一戦で日本文理のエースが得たものとは?

ヤマハのマネジャーを務める伊藤直輝さん(右)【写真:間淳】

伊藤直輝さんは東北福祉大を経て社会人野球・ヤマハで活躍

甲子園には何年経っても語り継がれる一戦がある。2009年夏、日本文理対中京大中京の決勝戦も、その1つだ。日本文理は9回2アウトから5点を奪い、中京大中京を追い詰めた。当時のエース伊藤直輝さんは社会人まで続けていた野球を引退し、第2の人生を歩み始めている。

新型コロナウイルス対策でマスクをつけ、顔は半分見えない。髪型は当時の丸刈りではなくなっている。だが、優しさの中に鋭さを感じさせる印象的な大きな目は当時の姿を思い出させる。

聖地に名を刻んだ夏から12年が経った。甲子園の準優勝投手・伊藤直輝さんは、ユニホームを脱いでいた。新潟県の日本文理でエースだった伊藤さんは2009年の夏、甲子園で決勝までの5試合を1人で投げ抜いた。そして、中京大中京との決勝戦は歴史に残る一戦となった。日本文理は9回2死からの猛攻で5得点。中京大中京に1点差まで迫った。

伊藤さんは高校卒業後、多数のプロ野球選手を輩出している東北福祉大に進学。その後、社会人の名門・ヤマハでも野球を続けた。2016年には日本選手権で優勝。伊藤さんは先発も中継ぎも務め、チームに貢献した。その後の2年間は不調に陥る時期もあったが、2019年は都市対抗野球大会の予選でベンチに入った。ところが、本大会出場を決めて1週間ほどが経った6月上旬、監督からマネジャー転身を打診された。

「まさか、そんな話をされるとは思っていなかった。セカンドキャリアも漠然としか考えていなかったし、すぐには受け入れられなかった」

ヤマハのマネジャーを務める伊藤直輝さん(右)【写真:間淳】

28歳でマネジャー就任「新しいチャンスや成長につながる」

伊藤さんは妻と長男の3人で暮らしていた。当時は28歳。現役への未練もあった。数日考え抜いた末、答えを出した。「誰でも任せてもらえるポジションではない。野球に関われるのはありがたいし、忙しそうなイメージがあるマネジャーは人生のステップアップにつながると思った」。第2の人生を歩む決断をした。

ヤマハ野球部のマネジャーは伊藤さん1人だけ。選手が使う用具の発注やスケジュール管理など仕事は多岐に及ぶ。大会や遠征となれば、大所帯での行動となるため、宿泊先の確保も簡単ではない。スケジュールは半年先まで考え、試合を組むとなると相手チームの弁当の数や審判の手配、選手が所属する部署への報告も必要になる。

不慣れな仕事に苦労することもある。7月8日に第2子の男の子が生まれたものの、家族と過ごす時間が十分に取れない時もある。それでも、毎日やりがいを感じ、充実していると即答する。マネジャーは人と話す機会が、とにかく多い。チームの窓口であり、顔になる役割と自覚し「自分の対応でチームの第1印象が決まってしまう」と責任感を口にする。

今では「人と話すのが好き。人と話をすると自分が知らなかったことを知れるし、つながりが持てる。新しいチャンスや成長につながる」と話す伊藤さん。だが、元々はコミュニケーション能力が高くはなかったという。変化のきっかけは、あの夏の激闘だった。

「大人が一戦にかける姿は人の心を動かす力がある」

「たくさん取材も受けたし、知らない人からも、あちこちで話しかけられた。普通の高校生ができない経験をさせてもらって、相手の気持ちが分かり、自分の考えを言葉にできるようにもなった」

当時の新潟県は甲子園で1勝すれば大ニュース。もちろん、新潟県代表が決勝進出するのも初めてだった。日本文理ナインは地元の“伝説”となり、伊藤さんの名前も全国区となった。

マネジャーは色々な立場の人の間に入る。チームでは選手と選手の間や、選手と監督・コーチの間。ヤマハの社内関係者や社外の人たちと野球部をつなぐ役割もある。伊藤さんは「勝利を目指す選手と一緒に喜べるのはうれしいこと。マネジャーの仕事はチームの雰囲気や結果にも影響すると思っている。チームが勝てるように、社内外から応援してもらえるように橋渡しをしたい」と語る。

そして、さらに壮大な「橋渡し」も思い描いている。「社会人野球の技術の高さをもっと知ってもらいたい。それに、負けたら終わりのトーナメント戦で甲子園にも似ている。大柄な大人たちが一戦にかける姿は人の心を動かす力がある」。甲子園に名を刻んだ準優勝投手は、第2の人生で黒子として野球の魅力を伝えようとしている。(間淳 / Jun Aida)

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