メリー喜多川さん死去 SMAP、マッチ、トシちゃん…スキャンダルを防いだ「ビッグママ」

マッチ&明菜の金屏風会見を“演出”した(1989年)

数多くの男性アイドルやグループを輩出した芸能プロダクション「ジャニーズ事務所」名誉会長の藤島メリー泰子(メリー喜多川)さんが死去していたことが17日、分かった。93歳だった。2019年に亡くなったジャニー喜多川さんを陰で支えてきたメリーさんは、時には“悪名高き”経営者とも伝えられることもあったが、それは「母」としてタレントを命がけで守ってきたからこそ。そんなメリーさんの長生きの秘訣だった爆食エピソード、そして何よりも大切にしていたマッチへの思いを一挙公開する――。

メリーさんは14日午前7時35分、肺炎のため東京都内の病院で亡くなった。葬儀・告別式は近親者で営まれた。喪主は長女でジャニーズ事務所社長の藤島ジュリー景子さん。

1960年代に弟のジャニー喜多川さんがジャニーズ事務所を創業。当時から経営に携わり、「たのきんトリオ」「少年隊」「SMAP」「嵐」など、多くのアイドルグループやタレントを支えてきた。主に社長だったジャニーさんがタレントの育成、副社長だったメリーさんが事務所経営と役割を分担し、2人で“ジャニーズ帝国”を築いた。

80歳を超えても、エネルギッシュにマネジメントに精力を注いだ。健康維持にも抜かりはなく、最先端医療を受けるためだけに渡米するほどだったという。

「ここ数年はどこか体が悪かったわけではないが、病院で生活をしていたそうです。コロナ禍になってからはほとんど外に出ていないという話だった。第一線で活躍していた5~6年前も、とても80代後半には見えなかった。65年来の友人である黒柳徹子さんとよく食事を楽しんでいましたが、高齢でもなおステーキが大好き。200グラムをペロリ。ワインも1人で1本を軽々と空けて、周囲は腰を抜かしていました」(テレビ関係者)

メリーさんと言えば、“パワフルエピソード”に事欠かない。特にバリバリだった1980年代は、あちこちに“すごみ”を利かせていた。

「田原俊彦と一夜をともにしたセクシー女優を村西とおる監督が作品化したことがありました。タイトルは『ありがとうトシちゃん』。当時、田原は人気絶頂でしたから、メリーさんがブチギレ。ジュリーさんと田原まで連れて、村西監督のところに乗り込んで猛抗議してきたそうです。それほど、体を張ってタレントたちを守ってきたんですよ」(芸能関係者)

さらにメリーさんの名前が大きくクローズアップされたのは、2015年の「週刊文春」に掲載されたインタビューだ。

当時、“SMAP育ての親”と言われていた飯島三智氏(現・CULEN代表取締役社長)と、ジュリー氏との間で後継争いや派閥抗争があるといわれていたことに対して、メリーさんがインタビューに「派閥争いなどない!」とキッパリ断言したのだ。

このインタビューでメリーさんは、近藤真彦の母親が交通事故で亡くなった時のことを振り返っている。ある芸能プロ幹部は「メリーさんはこの話をいろんな人に何度も話しているんです。それだけメリーさんにとって、マッチは特別な思い入れのあるタレントだった」。その近藤を守るために“暗躍”したといわれているのが、1989年の中森明菜との“金屏風会見”だ。

当時、交際していたと騒がれていた近藤と中森が金屏風の前で、恋人関係ではないと表明したという芸能史に残る会見だ。前出の芸能関係者は「中森と別れたいと考えていたマッチがすがったのが、メリーさんといわれていた。そのマッチの思いを受け入れ、別れるようにうながし、会見に持ち込んだと伝えられています」と語る。

そこまでして守ってきたマッチだけに、退所したことは大きなショックだった。

「近年、メリーさんが大きなショックを受けたことが2度あります。一つは2019年7月にジャニー喜多川さんが他界したこと。苦楽をともにしてきた弟の死を境に、メリーさんはマネジメントから完全に手を引きました。そして、もう一つは“事務所の長男”だった近藤の退所ですよ。手塩にかけて育てた近藤が今年4月に去っていったことに、大変なショックを受けていたそうです」(同)

わずか2年の間に2人を亡くした“ジャニーズ帝国”は、大きな転機を迎えようとしている。

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