牛島司令官はなぜ「南部撤退」を命じたか 終戦インタビュー 答え探す、孫の牛島貞満さん

 76年前の沖縄戦を率いた旧日本軍第32軍司令官の牛島満。その孫に当たる元教諭の牛島貞満さん(67)は、20年以上にわたり沖縄戦に関する調査や講演を続けてきた。祖父はなぜ南部撤退を決断し、多くの住民を巻き込んだのか―。今も沖縄に通い、答えを探し続けている。(共同通信=渡具知萌絵)

インタビューに答える牛島貞満さん

 ▽「立派な司令官」

 ―牛島司令官に対するイメージは。

 祖父は私が生まれる8年前、沖縄本島南部の糸満市摩文仁で、自ら命を絶ちました。自決日は1945年6月22日と23日の説がありますが、牛島家では6月22日を命日としています。靖国神社には、幼い頃から家族と参拝しました。私にとって祖父は、実家に飾られた勲章や軍刀、軍服姿の写真のイメージでした。

 ―靖国神社へは、中学1年を最後に行かなくなった。

 成長するにつれ、家族から聞く「立派な牛島司令官」の姿と、沖縄戦の惨劇が結び付かなくなったんです。小学校教諭になってからは、沖縄に行きたい衝動と、祖父のことで沖縄の土を踏みがたい気持ちで悩んでいました。自分なりに平和や人権を大切にする教育をしてきたつもりでしたが、「祖父がやったことをどう思うのか」と沖縄県民に問われた時の答えが分からなかったのです。

 

 ▽終わりなき戦闘

 ―1994年春に、初めて沖縄を訪れた。

 糸満市の県平和祈念資料館に行くと、祖父が自決直前に出した軍命「最後マデ敢闘シ、悠久ノ大義ニ生クベシ」が目に飛び込んできました。「この命令で最後の一兵まで玉砕する終わりのない戦闘になった」との解説があり、衝撃を受けました。祖父の自決で沖縄戦は終わりませんでした。日本軍が降伏文書に正式調印する9月7日まで、戦闘は続いたのです。その事実を突き付けられた気がしました。

 ―その年の夏、教職員組合の平和学習ツアーで再び沖縄を訪問した。

 ツアーに参加することで、「沖縄」へのわだかまりに一区切りを付けられるのではないかと思ったのです。ところが、参加者名簿を見た地元のガイドが「司令官と一字違いの人がいますね」とぽつり。後から、孫だと打ち明けると「自分でおじいさんのことを調べることが大切です。お手伝いします」と申し出てくれました。区切りを付けるつもりが、逆に重い宿題をもらったなと感じましたね。

那覇市の首里城の地下にある、旧日本軍第32軍司令部壕(ごう)の第5坑道の坑口前で話す牛島貞満さん=2020年7月

 ▽歴史と向き合う

 ―それ以来、牛島司令官に関する証言や資料を集め、各地で講演を続けている。

 多くの住民や兵士が犠牲になった最大の原因のもう一つは、祖父が下した「南部撤退」の命令にあります。首里から南部に撤退した結果、日本軍、米軍、住民の3者が混在する戦場が発生しました。祖父が本土決戦があると信じて疑わなかったのは確かです。沖縄戦はそれまでの時間稼ぎで、沖縄は本土の防波堤として利用されたのです。祖父は天皇に対する忠誠心から、南部撤退を決断したのだと思います。

 ―南部撤退の作戦は「当時の情勢では仕方なかった」との声もある。

 撤退しなければ推計約9万4千人に上る住民の犠牲者のうち、約3分の2は生き延びた可能性がありました。牛島満はなぜ「南部撤退」「最後マデ敢闘シ」の命令を出したのだろうか。当時どのような情報を持ち、何を考え、結果として十数万人の住民と兵士を犠牲にした二つの命令を下したのか。この疑問を解くことが、私のテーマになっています

 ―首里城の地下に眠る第32軍司令部壕(ごう)の調査に力を入れている。

 司令部壕は南部撤退の作戦命令を議論、決断した場所です。現在のように地下に埋もれたままでは意味がありません。例えばポーランドのアウシュビッツ強制収容所跡は、ナチス・ドイツによるホロコースト(ユダヤ人大量虐殺)の歴史を後世に伝え、戦争遺跡、平和教育の場として機能を果たしています。司令部壕も学習の場として保存し、公開されるべきです。

 沖縄県民が身をもって紡ぎ出した「軍隊は住民を守らない」との教訓は、平和を築く上で非常に大切なメッセージです。東アジアの緊張が高まる今、日本が歴史との向き合い方を発信することが、諸国との共存と平和につながるのではないでしょうか。

 

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 うしじま・さだみつ 1953年東京都生まれ。2017年3月まで都内で小学校教諭を務めた。

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