エンゼルス大谷翔平の先生の先生! 横浜で受け継がれる「のびのび」原点

高校時代の大谷(左)と花巻東・佐々木監督

【越智正典 ネット裏】世の中、上には上がある。立派な人がいる。多くの場合、知られていない。エンゼルスの大谷翔平の先生、花巻東の佐々木洋監督の先生は横浜隼人の地理歴史と公民、併せて社会科の先生、水谷哲也野球部監督である。

横浜から相模鉄道の急行で14分、希望ヶ丘で降り、少し歩いて横浜市瀬谷区阿久和南1丁目の学校法人大谷学園横浜隼人高校を訪れると、中学高校の下校時間だった。女子生徒が「こんにちは」「こんにちは」。驚かされた。それというのも歩きながらではなくて立ち止まって挨拶してくれた停止礼だったのだ。昔は同校のあたりは阿久和村字隼人だったと聞くが、その隼人が校名になっている。

鈴木紀代子校長が言っている。

「まあー、まあー、ご近所の皆さまに信頼され、ご近所の皆さまを大切にする学校に…と思っているんですよ」

それにしても「大谷」学園というのも奇縁である。横浜隼人高校の創校は1949年であるが、本当の創立者は大谷嘉兵衛翁といってもいいだろう。翁は横浜開港と同時に日本を豊かな国にしようとお茶の会社を作って奮闘。輸出する品が乏しく、明治6年、1873年、横浜に初めてガス燈が灯ったその年、ウイーンで開かれた万国博覧会に出品したのは菅笠とお茶だった。お蚕さんの絹糸が特に対米の輸出品の主力になるのはもっとあとのことである。

水谷哲也は前の東京五輪の64年、眉山が美しい徳島市で呱呱の声をあげた。少年時代、甲子園球場からの阪神巨人をテレビで見て野球が大好きになり、キャッチャー。進学校の徳島市立高校3年の夏が終わると、監督に国士舘大学に行きなさいといわれて素直に従った。国士舘大学は戦国東都の「二部の王者」だった。知らなかった。これがかえってよかった。悲願は一部昇格。87年春卒業、日中は大学の、夕方から国士舘高校のコーチを務めた。卒業が近づいた。横浜隼人高校の監督に推薦された。地図をひろげると、東京都町田市広袴の国士舘大学野球部合宿所の南で、近いのがわかった。赴任。

「神奈川には横浜高校、東海大相模、慶応高校、桐蔭学園…立派なチーム、高校があるのは知っていましたがこんなに凄い地区とは知りませんでした」。のちに述懐している。

水谷の国士舘高校の後輩、青山学院大学の名マネジャー、松田町の立花学園監督、いまは水谷に招かれて日本史と政治経済の先生、コーチ、押部孝哉はいう。

「水谷先生はホントに選手思いです」

水谷はのびのびとしたチームを作った。一塁ベンチ。選手は午後、また弁当を食べてよい。

「体重が1キロ増えると球が1キロ速くなるんだって…」「そうか! ボクもあした二つ弁当を持って来ようっと」

三塁ベンチの横に机を出して宿題をやっている選手がいる。試験が近いので英語の復習をしている選手もいる。保健体育の先生大野健太コーチが「英単頑張れ」と叫んで改めてノックを始める。夕焼けがキレイだった。=敬称略=

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