【山崎慎太郎コラム】野茂がドジャースに決まって本当によかった

メジャー挑戦のため、団野村氏(左)と行動をともにした野茂

【無心の内角攻戦(16)】1994年に野茂英雄は右肩痛で戦線離脱し、リハビリに入りました。メジャーに行きたいということは前から言っていて、ずっと思いは変わらない。でも今みたいに道がない。それまでフォーム改造のことで鈴木啓示監督と衝突し、今後について球団との話し合いをしていたと思います。でもメジャー行くって言ってもどうやって行くねん、とは思っていましたよ。僕は一軍で野茂は二軍にいたので動きはわからなかったですね。

チームも不安定な中で僕は自分の仕事をしっかりやろうと12勝をマークできた。チームはガタガタでもそれまで2年間、中継ぎに回っていたし、コンディショニングの立花龍司コーチともう1回トレーニングをやり直し、ローテに戻る目標を持って取り組んだ。そこで頑張るしかないという部分と、チームが低迷という部分が反比例してしまったけど(笑い)。しっかりやっていたから僕は鈴木監督からも何も言われなかったと思います。チームが大変だからといって、成績を残さないと給料も上がらない。

オフになっても野茂と球団はもめているし、金村義明さん、吉井理人さん、阿波野秀幸さんら一緒にいたメンバーがいなくなった。どうなんのかな…。これは現実だし、プロなんでポシャるわけにもいかないし、頑張らんといかんし…。そのころは選手間で連絡取って「えっ!? どうなんの、このチームは!」なんて話していましたね。

野茂と連絡を取ることはなかったけど、球団内でかん口令みたいなのが出ているのかなと思っていました。詳しいことを知っている人がいても知らないことにしないと、漏れてどう広がっていくかわからない。進む話が止まるかもしれない。僕らは野茂に頑張れって思っていました。どう考えても選手の扱いが悪かったですし、選手側からしたら大事にしてくれてないという意識があった。選手と監督との関係もそうだし、フロントも何かあったら「お前のわがままやろ」みたいなことばかりで…。球団に対する不信感があったと思いますね。

世間的には野茂が代理人をつけてわがままで出ていったみたいになっていました。自由契約とか任意引退とか、協約の抜け道とかね。でも実際、選手からしたら自分の職場を守らないといけないのに、球団は任意引退にしてヨソに行けないようにしたかっただけでしょ。それはおかしい。そこにメジャーが出てきた。

ドジャースに決まった時はよかったと思いました。間違いなく通用すると思ったし、フォークだけじゃなく全部で活躍できる。あの気持ちの強さはハンパじゃないし、自分を曲げない。あいつならどこ行ってもできる、と思っていたらすごい活躍になりましたね。球団とのもめ事で苦労していたので、本当によかったですよ。

☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。

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