【山崎慎太郎コラム】「慎太郎には残ってほしかった」なんて…ウソつけ!!

小林投手コーチ(中央)と微妙な関係に…

【無心の内角攻戦(23)】1997年のオフ、僕はFA権の行使に踏み切りました。その年は…新任の小林繁投手コーチとうまくコミュニケーションが取れていなかったんです。合う、合わないは誰でもあることですけど、今まで出会った投手コーチの中では一番接点がなかったと思います。ほとんど会話した記憶がない。小林さんは同じ巨人ということで香田勲男さんとよく話していました。

最初はFAのことは考えてなかったけど、権利の取得がその年に10年から9年になったんです。二軍調整していたら9年になって「あれ、FA取れてもうた」って(笑い)。周りが少しざわついていたけど、急に前倒しで取れても実感ないし、出る気もない。その年は調子が上がらず、8試合で3勝4敗でずっと二軍暮らしが続いていました。そのころ僕をトレードに出そうというような空気を感じたんですよ。編成が動いていそうな雰囲気があった。現場の方で慎太郎は扱いやすい、扱いにくいというのが首脳陣にあったのかもしれない。身に覚えがなくてもどう思われていたかはわからない。もしかしたら小林さんとの関係もあったのかもしれないし、わかりません。

FAするならもう1回、どこかで花を咲かせてあげよう、みたいなことを編成が外の球団に言っているらしいと…。それを人づてに聞いて、それってトレードなのかって。行き先を人に決められるならFAしようって思ったんです。それがきっかけみたいなもんです。それに球団からの残留交渉はありましたけど、佐々木恭介監督や小林コーチとは一切話していないんです。普通は声をかけてくれてもいいのにと思いますよね。結局、そんな感じなのかと…。何かしたわけでもないのに、嫌われてたんですかね。どうすんねん、くらい聞いてくれてもいいのにねえ。

かといって実際のところ、他球団から水面下の話は一切ない。フロントの足高圭亮さんに「今の状況は我慢できない」と言うと「そこまで言うならしゃーないな。どこも手を挙げなかったら帰ってこい」と言ってくれて、それでイチかバチかのFAに踏み切ったんです。

交渉解禁の初日、どこからも話はない(笑い)。やっちまったと思った。だいたい初日に連絡もらえるもんなんですけどねえ。ちょうどテレビ局に密着されてましてね。トライアウトの結果待ちでよくあるやつですよ(笑い)。ディレクターと「どこもなかったらどうしよう」なんて話してたら、2日目にダイエーから連絡が入ったんです。最初に声をかけてもらったところに行こうと決めていました。

そのころ近鉄球団のゴルフコンペがあってね。佐々木監督がスピーチで「慎太郎には残ってほしかった」なんて言ったんですよ。ひと言もしゃべってないのにウソつけ!って思った。リップサービスなんかなと思って寂しい気持ちでしたね。

☆やまさき・しんたろう 1966年5月19日生まれ。和歌山県新宮市出身。新宮高から84年のドラフト3位で近鉄入団。87年に一軍初登板初勝利。88年はローテ入りして13勝をマーク。10月18日のロッテ戦に勝利し「10・19」に望みをつないだ。翌89年も9勝してリーグ優勝に貢献。95年には開幕投手を務めて近鉄の実質エースとなり、10勝をマークした。98年にダイエーにFA移籍。広島、オリックスと渡り歩き、2002年を最後に引退した。その後は天理大学、天理高校の臨時コーチや少年野球の指導にあたり、スポーツ専門チャンネル「Jスポーツ」の解説も務めている。

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