飛田穂洲の訓話に心打たれたハマの藤木幸夫

藤木幸夫

【越智正典 ネット裏】横浜の野球関係者や選手みんなに慕われ尊敬されている藤木幸夫(藤木企業会長、横浜エフエム放送会長…)は先年、カジノを含むIR事業への参入が動き出したとき「一生懸命働いて汗を流して得るオカネは尊いがカジノは違う」。至言を述べて反対したが、藤木幸夫は1948年、早稲田大学政治経済学部に入学、野球部に入部したキャッチャーである。

新人集合の声がかかった。新人が直立不動で輪になっているところへ初老の紳士がバットを持って現れた。飛田穂洲(忠順)氏だった。

「『入学おめでとう。君たちは選ばれて早稲田の選手になった(藤木は教授、外岡茂十郎野球部長推挙)。そこで君たちにしっかりいっておくことがある』。飛田穂洲氏はわたしたちに言ってからバットで地面に線を引いた。『棚をつくって塀をもうけてヘナヘナな当たりでも上を越したら本塁打、わしゃ認めんよ。きちっとした当たりで心をこめて鋭い当たりをすれば投手ゴロでもそのほうが本塁打よりは余ほどよい』」

すごい訓話だ。さすが水戸っぽの飛田穂洲さんだなあーと思って私は聞いた。野球以外の何にでも当てはまることだと感じた。「十八歳の私の胸に熱い息吹が沸き起こった」(藤木幸夫氏自著『ミナトのせがれ』神奈川新聞社2004年刊)

藤木の大成を確信したのは44年、中等野球の名門、市岡中学(市岡高校)から入学入部の名ショート蔭山和夫である。蔭山は50年南海ホークスに入団。給料を貰うと封を切らずに母ひとり子一人育ててくれたおかあさんに差し出した。51年新人王、62年代理監督から正監督、33勝18敗2引き分け、指揮53試合、志半ばで急逝する。

藤木は純烈な少年だった。米軍機の横浜大空襲。家のすぐそばの武相中学(高校)が燃えている。スコップを持って家を飛び出し火の海のなかで消火。名前も告げずに立ち去った。あとで神奈川県立工業機械科の生徒藤木とわかって武相の石野校長夫妻に感謝されている。山賀辰治校長に「偉かったぞ。いいことをしてくれた」とほめられた。それも束の間だった。爆撃機、艦載機計600機の横浜大空襲。母校神奈川県立工業も焼けた。火流のなかに飛び込んで消火。可愛がってもらった先生や新婚の先生が焼夷弾の直撃を受けて亡くなった。

45年8月15日、終戦の「玉音放送」。翌16日の朝、藤木は射し込む陽光に本当に朝の光りなのだろうかと思った。

話を戻すと、飛田穂洲の訓話に心打たれた藤木だったが、大好きなおかあさんが新橋田村町の川島胃腸病院に入院した。胃がんだった。彼は毎日輸血に通った。採血400CC。野球部を退部した。母親ハルさんは49年12月19日に逝った。

藤木は2001年、勲三等瑞宝賞受勲、オランダ名誉領事、中華人民共和国外国専家局友誼賞、大連市外国専家星海友誼賞を受賞している。一筆求められると「恩」と書くが、重苦しくない。それこそ、朝の光りのような男である。 =敬称略=

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