2000安打達成の西武・栗山巧 偉業達成の原動力は二軍練習場

ライオンズひと筋の栗山巧(東スポWeb)

【赤坂英一 赤ペン!! 】西武・栗山巧外野手が達成した2000安打は生え抜きとして球団初の偉業だった。これは1年目の2002年から5年目まで続いた二軍暮らしを抜きに語ることはできない。栗山はかつて、西武ならではのファームの環境についてこう語っていたものだ。

「ウチは二軍の球場や寮のすぐ隣に一軍の本拠地があるでしょう。そこでナイターをやってると、寮の部屋まで聞こえるんですよ、お客さんの歓声とか応援団の鳴り物が。たまらなかったです」

手を伸ばせば届きそうなところに、自分がいる二軍とは完全な別世界がある。しかもそこでは、ドラフト同期で同い年の中村剛也がひと足先に活躍していた。この危機感が栗山の原動力になった。

二軍では、打てないと人一倍悔しさをむき出しにした。凡退してベンチに帰ってくると、バットをたたきつけたり、ゴミ箱を蹴っ飛ばしたり。

「ムシャクシャした気分を引きずらないように、一発ガツーン!とやって切り替えるんです。一番当たったのは手袋。よくベンチ前の金網に、バチーン!とやりました」

無安打に終わったら、よく試合後に自ら居残り特打を行った。打撃投手がいないと、二軍投手コーチの渡辺久信(現GM)に「僕に投げてください」と頼み込んだという。

いつも快く引き受けた渡辺が投げていたのは、真っすぐではなくカットボール。微妙に変化して芯を外す球種で、タイミングの取り方をつかませようとしたらしい。その渡辺はこう言っている。

「そのころから、自分が一軍の監督になったら、この選手をどう使おうかな、と考えていました」

渡辺が一軍監督に就任した08年、栗山に任せた打順は2番。送りバントより強攻策優先の「攻撃的つなぎ役」という役割が栗山の個性にピタリとハマった。栗山はこの年、リーグ最多の167安打を記録し、リーグ優勝と日本一に貢献している。

ところが、一軍で実質2年目の翌09年、栗山のバットからパタリと快音が途絶えた。相手バッテリーに研究されたこともあり、開幕戦から26打席ノーヒット。そんな中、渡辺監督は栗山を室内練習場へ連れていった。

「これは監督としてやるんじゃない。一西武OBとしてやることだから」

渡辺監督はそう言って、昔のように栗山の打撃投手を務めた。必死に這い上がろうしていた二軍時代をもう一度思い出せ、と語りかけるかのように。栗山の2000安打の原点は間違いなく、日夜もがき続けていた二軍の練習場にある。

☆あかさか・えいいち 1963年、広島県出身。法政大卒。「最後のクジラ 大洋ホエールズ・田代富雄の野球人生」「プロ野球二軍監督」「プロ野球第二の人生」(講談社)などノンフィクション作品電子書籍版が好評発売中。「失われた甲子園 記憶をなくしたエースと1989年の球児たち」(同)が第15回新潮ドキュメント賞ノミネート。ほかに「すごい!広島カープ」「2番打者論」(PHP研究所)など。日本文藝家協会会員。

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